結局、一睡もできなかった。
楪(ゆずりは)は、白々と明けゆく王都の街並みを、寝室の窓辺からただ呆然と見下ろしていた。
昨夜、この異世界に召喚されてからというもの、彼女の頭の中は整理のつかない困惑と、逃げ場のない不安で飽和していた。
全身の芯に深く刻まれた、抗いようのない重だるさ。
それが召喚という儀式に伴う『魔力の代償』なのだと教えられたが、その説明だけで納得するには、あまりにも心と身体の摩耗が激しすぎた。
(……帰れないんだ、本当に)
冷たい窓ガラスに額を預ける。
昨夜、祭壇で見た人々の熱狂的な瞳。自分を「救世の主」と呼ぶ、狂信的なまでの期待。
それに応えなければならないという強迫観念が、彼女の華奢な肩を、物理的な質量を持って押し潰そうとしていた。

(コン、コン――)
不意に響いたノックの音に、楪の肩が跳ねた。
扉の向こう側に気配は感じていたが、それはあまりにも正確で、事務的な響きだった。
「聖女様。お目覚めの時間でございます」
入ってきたのは、数人の侍女たちだった。彼女たちは、楪がすでに起きていることに驚く様子も見せず、流れるような動作で朝の支度を開始した。
「さあ、こちらへ。本日から、聖女様としての教練が滞りなく組まれております。一刻の猶予もございません」
有無を言わさぬ空気。侍女たちの敬意に満ちた仕草さえも、今は彼女を逃がさないための『檻』のように感じられた。
救国の楔、古文書の重圧(おもみ)
身支度を終えた楪(ゆずりは)が窓辺の席へ腰を下ろすと、一人の侍女が音もなく進み出た。
銀のトレイから差し出された白磁のカップには、淹れたての紅茶が琥珀色の雫を湛えている。
白々と明けゆく王都の光を透かし、細い湯気が冷えた空気の中へと、一分の乱れもなく吸い込まれていった。
楪がその温もりに指を添えるのと同時に、侍女は静かに、淀みなく言葉を紡ぎ始めた。
「聖女様。本日より始まる教練の予定を申し上げます」
冷たく澄んだ声が、静かな室内に響く。
「まずは最初の三日間、大図書室にて宮廷魔導師による歴史と魔導の座学を。基礎を修めた後、週明けからは女官長指導による拝謁の礼法訓練、および歩法訓練へと移ります。
十日後の『降臨祭』のパレードでは、王室の馬車にて市内を巡り、民へ慈悲の微笑みを振りまいていただくことになります。一分たりとも無駄にはできません。全てはこの国を守るため、聖女様としての自覚を持って臨んでいただきたく存じます」
(……パレード。王都だけでも百万として、国全体ではその数倍……)

かつて趣味で小説を書いていた楪(ゆずりは)にとって、『百万』という数字は、白い紙の上で自在に操れる都合の良い記号に過ぎなかった。
だが今、窓の向こうに広がる都市から伝わってくるのは、インクの匂いではなく、無数の呼吸が入り混じった圧倒的な『生身の人間』の熱量だった。
かつて自分が生み出した物語の中で、聖女は百万の民に微笑んでいたはずだ。けれど、いざその渦中に立たされる『生身の自分』に、それほどの大衆の視線を跳ね返す力などあるはずもない。
強固な壁と厚いカーテンに守られた馬車という箱――。それだけが、今の彼女にとって外界から理性を守り抜くための、最後にして唯一の防波堤だった。
「……はい。精一杯、努めます」
ようやく絞り出したその声は、重厚な石壁に吸い込まれ、自分でも驚くほど弱々しく霧散した。
温かなはずの紅茶から伝わるのは、ただ逃げ場のない冷徹な宿命の重みだけだった。
楪は湯気の向こう側で白く輝き始めた「檻」を見つめ、静かに、一口だけその熱を飲み込んだ。
※※※
「……お加減はいかがかな、聖女様。少し、顔色が悪いようだが」
大図書室の静寂を破ったのは、深い湖の底から響くような、穏やかで重厚な老人の声だった。
腰まで届く白髭を蓄えた老賢者アラリックは、水晶の杖をコツリと鳴らし、深い溜息をつく。
楪(ゆずりは)は、革張りの椅子の端を指が白くなるほど強く握りしめていた。
「……教えてください」
昨夜、召喚された直後に行われた『鑑定』。眩いばかりの光に包まれ、大勢の神官たちの祈祷の声が地鳴りのように響く中、自分が自分でなくなっていくようなあの時間の記憶が、今も鮮烈な眩暈(めまい)となって脳裏を離れない。
「歴史とか魔法とか、今はそんなの……どうでもいいんです。私は、どうやったら自分の世界に帰れるんですか? 帰る方法を、教えてください」

切実な、叫びに似た問い。だがアラリックは驚く様子もなく、ただ慈愛に満ちた、しかし冷酷なまでに澄んだ瞳で彼女を見つめ返す。
「……左様か。やはり、まずはそこから話さねばならぬようだな」
「あるんでしょ? 私を呼ぶ魔法があったなら、送り返す魔法だって……!」
「聖女様。あなたが帰るためには、まず、この世界が『存続』していなければならない。道が消え、扉が砕ければ、帰るべき場所へ繋ぐ術(すべ)すら失われる」
アラリックはゆっくりと水晶の杖を掲げ、机の上に広げられた巨大な羊皮紙の地図を指し示した。
「あなたが今、帰ることを選べば、この世界は滅びる。そうなれば、あなたもまた『虚無』の底へ呑み込まれることになる。……なぜ我々が、禁忌を犯してまであなたを招かねばならなかったのか。この地図が、その答えだ」
楪の視線が、地図の奥へと吸い込まれていく。

古びた羊皮紙の上には、かつてこの世界――『エテラス』を謳歌した四つの大陸が、精緻なインクの線で克明に記されていた。連なる山脈、網の目のように走る運河、そして誇らしげに刻印された数多の都市の名。
だが、地図の上がどれほど色鮮やかな記録で満たされていようと、実際の世界はすでに『ゾフィア』を除いて無機質な余白――『白き乾涸(アル・カ)』へと呑み込まれているのだ。
それは、大地を流れる生命の血潮『地脈の律動(リィマ)』が解離し、空気中に溶け出し、消えていく現象を指す。
魔力が抜け落ちた大地は、まずその水分を失い、次に色彩を失い、最後には白く輝く微細な結晶へと変質する。
その実体は、あらゆる生命の脈動と『世界の理(ことわり)』を根こそぎ剥奪する、沈黙の侵食だ。
地脈(リィマ)を吸い尽くされた土地は、ただの乾燥した大地となるのではない。
草木は色彩を奪われて透明な硝子へと変じ、触れれば微かな風圧だけで無惨に砕け散る。流れる水はその流動性を失って喉を焼く結晶毒となり、柔らかな土は熱を失い、芽吹きを永遠に拒絶する白磁の檻へと姿を変える。
音も、香りも、そして明日への希望さえもが白濁し、世界を剥製の死骸へと変えていく絶望――。
それは雪原のごとき清冽な美しさを装いながら、一度でも触れれば魂までをも凍てつかせ、存在そのものを『無』へと還す、逃れ得ぬ死の領域なのだ。

東方の死地『ナド・ルカ』。
かつては数多の運河が走り、精霊の祝福を受けた花々が咲き誇る豊かな文明の都であった場所だ。
だが現在、そこには最も凄惨な形で『アル・カ』に呑み込まれた惨状が広がっている。
死を許されぬまま結晶の怪物と化した犠牲者たちや、精霊力の暴走により異形へと成り果てた『空鳴(くうめい)の異形(ケノス)』が、残された生者を求めて彷徨う地獄――。
それは、かつての繁栄が嘘であったかのように、世界から切り離された絶望の代名詞となっている。
西に横たわるのは、自由都市連盟『ヴェスペリア』。
かつての統一王国の威光は、地脈の枯渇に伴う中央政府の瓦解と共に消え失せ、今は生き残った都市群が存続を懸けて辛うじて手を結ぶだけの、不安定な連盟へと姿を変えている。
城門に殺到する難民と、止まらぬ『白き乾涸(アル・カ)』の足音。 中央大陸アルテアの盤石な静寂とは対照的な、そこは今この瞬間も壊れゆく混乱の最前線だった
北の極寒を統べる軍事大国『バルガ帝国』。
かつては鋼鉄のごとき規律と強大な魔導技術を誇り、エテラスの北半分を支配した勇猛なる覇権国家だ。
だが、現在の彼らにかつての栄光はない。
国土の八割が『アル・カ』に呑まれ、白磁の廃墟へと成り果てた今、残された民が生き延びる術は、リィマ(地脈)の通う唯一の安土――中央大陸ゾフィアへの武力侵攻と略奪のみ。
死に物狂いの皇帝が率いる鉄の進撃は、正義も悪も超えた『生存』という名の狂気を孕み、今まさにその牙を剥こうとしている。
そしてここ、聖アルテア王国。
エテラスに残された最後の神権国家であり、数千年にわたり『地脈(リィマ)』の守護を司ってきた祈りの地だ。
人々は精霊の加護を絶対的な指針とし、その信仰の象徴として歴代の『聖女』を戴いている。
ここは、他国が魔導技術や武力に縋(すが)る中、唯一『祈りと献身』によって世界の崩壊を食い止めている、いわば人類最後の灯台。

しかしその実態は、聖女という名の生贄を捧げ続けることでしか存続し得ない、過酷な宿命に縛られた悲劇の揺り籠でもある。
大陸全土が白き虚無に消え去る中、この国だけが生命の熱を保ち続けているのは、国民一人ひとりの信仰という名の執着が、死にゆく世界を無理矢理に繋ぎ止めているからに他ならない。
聖アルテア王国の心臓部、王都『ルナ・テラス』。そこは大陸最大の地脈(リィマ)が収束し、世界を繋ぎ止める最後の結節点である。
天を突く白亜の尖塔と幾重にも重なる堅牢な城壁は、単に外敵を防ぐためのものではない。
それは押し寄せる『白き乾涸(アル・カ)』の沈黙を撥ね退け、残された生命の熱を逃がさぬための巨大な結界そのものなのだ。
この都で脈打つ鼓動が止まる時、それはエテラスから『存在』という概念そのものが失われ、すべてが音のない白い結晶の墓標へと還ることを意味している。
この美しくも脆い最後の安土(あんど)を守るためだけに、歴代の聖女はその命を薪として地脈へと捧げ続けてきたのだ。
ここが崩れれば、エテラスから生命の鼓動は完全に失われ、すべては静かな、白い結晶の墓標へと還るだろう。
猶予は誰にもわからない。明日か、数ヶ月後か。
予測不能な死の足音が、今この瞬間も王都の門前にまで迫っている。
百万の民衆が、毎朝庭の土が白くなっていないかを確かめ、神へ祈る。
それが、この世界の偽らざる現実であった。

「……嘘、だ」
楪の声は、震えていた。
小説を書いていた頃、こんな『設定』を考えたことがあったかもしれない。
だが、地図に刻まれた精緻な都市や山脈の地名を指でなぞるたび、そこが現実には音のない『白い余白』へと消え果てているという事実が、数百万の命を押し潰すような質量となって指先を刺した。
「嘘ではない。あなたが帰りたいと願うその場所も、この世界が『アル・カ』に呑まれれば、永遠に閉ざされることになるのだ、聖女様」
アラリックは静かに地図を閉じた。そして、手に持った水晶の杖を、まるで彼女の鼓動を測るかのように、楪(ゆずりは)の足元へと向けた。
杖の先の水晶が、淡く、しかし力強く明滅を始める。
「……ほう。これほどまでに深く、そして烈(はげ)しい律動(リィマ)は、かつての王妃様ですら見られなかったものだ。……昨夜授かった『天憲の光紋(グラマ)』。それがあなたの魂の、最も深く、清浄な場所に根付いていることを、この杖が告げておる」
楪の肩が、びくりと跳ねた。
「驚くことはない。高位の魔導師にとって、体内の『地脈の律動(リィマ)』の流れを読み取るのは、風の色を視るのと同義なのだからな」
アラリックは、水晶の杖をコツリと床に鳴らした。その音が、図書室の静寂を鋭く切り裂く。
「……だが、戸惑うのも無理はない。本来、『天憲の光紋(グラマ)』とは、数週間の過酷な修練を経て、精神がこの世界の理と調和した際、初めて『手の甲』に現れるもの。……少なくとも、今まではそうだった」
「手の、甲……?」
楪(ゆずりは)は、思わず自分の白く細い両手を見つめた。そこには、何も刻まれていない。
「ええ。先代の聖女――現王妃様も、かつてはその手の甲に、この国を救う光を宿しておられた。……だが、その祈りが空へと還り、聖なる力を失われた今、この世界はかつてない速さで『白き乾涸(アル・カ)』へと向かっている。……もはや、猶予はないのだ」
アラリックは一歩、楪(ゆずりは)へと歩み寄った。その重厚な威圧感に、彼女は思わず椅子に背中を押し付ける。
「……驚嘆すべきことだ。本来、二十年に一度現れる聖女様が『天憲の光紋(グラマ)』をその手の甲に宿されるまでには、数週間に及ぶ過酷な修練と祈りが必要となる。……だが、あなたは違った」
アラリックの瞳が、これまでにない熱を帯びて楪を射抜く。
「異世界から招かれたあなたの資質が、あまりに強大であったがゆえに……グラマは手の甲という末端に留まることを潔しとせず、あなたの存在の最深部――魂の最奥へと、直接的に刻印を成したのだ。あなたが目覚めた瞬間、その生命そのものが、この世界を救う『法』と完全に同期した。これこそが、歴代のどの記録にもない、至高の奇跡なのだよ、聖女様」
「そんな、私が特別だなんて……」
楪は必死に否定しようとしたが、言葉が出てこない。目の前の老賢者が語る言葉は、逃れられぬ真実として彼女の内に重い楔を打ち込んでいく。自分という一人の少女の意志など、この巨大な『奇跡』の前では、羽毛よりも軽く、無意味なものに思えた。
「左様。召喚初日に、それも魂の深淵に刻印が成されたことこそ、あなたが歴代のどの聖女よりも強く、特別な存在である証拠。……天は、この滅びゆくエテラスを救うために、最も純度の高い、至高の輝きを遣わしてくださったのだ。これこそが、奇跡の最果てなのだよ」
(……帰るために、戦えっていうの? こんな、見ず知らずの人たちの命を、全部私に押し付けて……)
楪は必死に呼吸を整えようとしたが、図書室の空気が物理的な重さを持って彼女の肺を締め上げる。アラリックの穏やかな眼差しは、慈愛などではない。それは、世界という名の『檻』に彼女を繋ぎ止めるための、一分の隙もない鎖そのものであった。
規律の午後、刻まれる気高さ
召喚から数日が過ぎても、この世界の空気はどこか余所余所しく、冷たいままだった。
図書室を出て、重厚な石造りの廊下を歩く楪(ゆずりは)の足取りは重い。午前中の座学でアラリックから語られた、滅びゆく世界の光景が、逃れられぬ宿命として彼女の心をじわじわと侵食していた。
「――あっ、聖女様ぁ! お、お疲れ様でございますっ!」

不意に響いた、少しひっくり返ったような高い声。
振り返れば、廊下の先から亜麻色のふわふわしたおさげを揺らし、小走りに駆けてくる少女の姿があった。
専属侍女のミーナ・バーレイ。十五歳になったばかりという彼女は、まだ自分の体格に合っていないぶかぶかの制服の裾を翻しながら、楪の前で勢いよく足を止めた。
「……ミーナ。お疲れ様。そんなに急がなくても……」
「い、いえ! 聖女様をお迎えするのが私の……あ、私の、お役目ですからっ」
ミーナは一生懸命に呼吸を整え、琥珀色の瞳を輝かせて楪を見上げた。彼女が懸命に紡ぐ不器用な敬語は、この数日間、楪の荒んだ心に唯一届く柔らかな響きだった。
「今日もたくさんお勉強されたんですよね。すごいです、私、文字を読むのもやっとで……。聖女様は、本当に立派なお方だなって……」
「……そんなことないよ。ただ、座ってるだけだし」
「そんなことなか……あ、ありません! 聖女様が頑張ってくださるから、村のみんなも、お父も、お母も、みんな希望を持てるんです!」
ふとした拍子に混じる、素朴な故郷の訛り。ミーナの瞳には、一切の打算も、強制もなかった。ただ純粋に、目の前の少女が世界を救う『聖女』であると信じ、崇めている。
「あの、午後のご予定なんですけれど……本日は『礼法の間』にて、実技訓練をすることになっています。王妃様も、聖女様の凛としたお姿を心待ちにされているんですよ!」
「……礼法、ですか」
「はい! 聖なる歩き方や座り方、それに指先の揃え方を教わると伺いました。私、聖女様なら絶対、神様みたいに綺麗に決まると思いますわ! 私、一生懸命お支えしますからっ!」
満面の笑みで、ミーナが楪の細い手を取る。ぶかぶかの袖から覗く、働き者の小さな手。
(……嫌だなんて、言えない。こんなふうに笑うこの子に、絶望なんて、見せられない……)
期待の重圧が、温かな手の温もりとなって楪を縛る。
百万の民という顔の見えない重みよりも、自分を『聖女様』と呼び、真っ直ぐな瞳を向ける十五歳の少女を裏切れないという想いが、彼女を静謐(せいひつ)な礼法の間へと一歩、また一歩と引きずり出していくのだった。
※※※
高い天井に、磨き抜かれた大理石の床。
差し込む午後の陽光さえもが規律正しく整列しているかのようなその部屋の奥で、彼女は待っていた。
銀髪を一点の曇りもないほどきっちりと結い上げたシニヨンに、喉元まで隠れる高い襟の、漆黒のヴィクトリア様式ロングドレス。無駄な装飾を一切排したその姿は、機能美という名の冷徹な刃を思わせる。
女官長、エララ夫人。彼女が静かに視線を向けただけで、部屋の空気が一分の隙もなく張り詰めるのを、楪は肌で感じた。
「――背筋を。聖女様の背に宿るは、この王国の背骨。それが曲がれば、民の心も折れましょう」
定規で測ったように真っ直ぐな姿勢のまま、エララ夫人が鋭い眼光を放つ。
「……はい」
楪は必死に背を伸ばす。慣れない重厚なドレスが肩に食い込み、すでに足の指先は感覚を失いかけていた。
歩く、止まる。ただそれだけの動作が、エララ夫人の前では一分の淀みも許されない神聖な儀式となる。
「歩幅は常に一定に。風に揺れる花のように淑やかでありながら、大地を鎮める大樹のように揺るぎなく。……もう一度」

「くっ……」
何度も何度も、冷たい大理石の上を往復する。
指先は揃え、親指は見せず、視線は常に数歩先の虚空を慈しむように向ける。
「指先が震えていますわ。体内の『地脈の律動(リィマ)』が乱れている証拠です。聖女様、あなたの呼吸一つ、指先の揺れ一つが、この国の安寧に直結していることをお忘れなきよう。王家の威信を汚す行為は、一点の曇りもあってはなりません」
その言葉は、もはや指導ではなく、絶対的な規律による断罪だった。
部屋の隅で見守るミーナが、心配そうに、けれど楪が姿勢を正すたびに「……わあぁ」と感嘆の吐息を漏らす。その無垢な期待と、エララ夫人の冷徹な視線。その二重の鎖が、今の楪には何よりも残酷だった。
(疲れた、座りたい、もう嫌だ……そんなこと、この空気の中で言えるわけない……)
額に滲む汗を拭うことさえ許されず、楪はただ、鏡の中に映る「自分ではない誰か」のような、気高くも悲しい聖女の姿を見つめ続けていた。
紫水晶の眼差し、黄金の絆
翌朝。楪(ゆずりは)は、約束の刻限より早く大図書室へと足を運んでいた。
エララ夫人による厳しい礼法指導と、耳元で繰り返される『救世』の言葉。それらから一時でも逃れたいという、小さな抵抗だったのかもしれない。
朝の光が斜めに差し込む静かな書庫。そこには、まだアラリックの姿はなかったが――代わりに、先客が一人いた。
「……あ」
書棚の陰から現れたその姿に、楪は思わず足を止めた。
プラチナシルバーの長い髪を揺らし、純白の法衣を纏った女性。身長172センチ。自分よりも遥かに高い位置から見下ろすその女性は、法衣の深いスリットから銀色のストッキングに包まれたしなやかな脚を覗かせ、紫水晶のような瞳で、じっと楪を射抜いていた。

「――ほぅ。面白いリィマを持っているな」
挨拶よりも先に、その女性は低く、澄んだ声でそう呟いた。
その視線は、楪という人間そのものではなく、その奥にある『何か』を冷徹に解析しているかのようだった。
「あの……えっと、あなたは?」
「いけません、イゾルデ様! 初対面の方をそんなにジロジロ見つめては失礼ですよっ!」
戸惑う楪の前に、弾けるような声と共に、もう一つの影が飛び込んできた。
蜂蜜色のツインテールを特大のリボンで結んだ少女。夕刻の青を模した魔導衣に、白いストッキングの絶対領域を眩しく晒しながら、彼女は慌てて楪に笑顔を向けた。

「ごめんなさい! この方、研究のことになると周りが見えなくなっちゃって。……わたし、フィリネ・ベルフルールと申します! フィリって呼んでください。そちらの綺麗な方は、イゾルデ・フォン・ルナリス様。王宮筆頭魔導師補佐をされている、わたしの師匠です!」
「フィリネ……。それと、イゾルデさん……ですね。私は、楪(ゆずりは)です」
楪が名乗った瞬間、フィリネの緑色の瞳が大きく見開かれた。
「えっ……。ユズリハ……様? 待ってください、ということは、あなた様が……」
フィリネは改めて楪の姿を、まるで奇跡の目撃者になったかのような、憧れと緊張が混ざった瞳で見つめ直す。
「あなたが……召喚された『聖女様』、なんですか?」
「……。ええ、そうみたいです」
「わ、わああぁ……! 本物だぁ……! ずっと、どんな方なんだろうってお話してたんです。こんなに綺麗で、優しそうな方だったなんて……!」

フィリネは感極まったように頬を染め、無自覚な上目遣いで楪を見上げた。
一方で、イゾルデは弟子の騒ぎを他所に、依然として峻厳な眼差しを崩さない。
「……聖女か。道理で、そのリィマの輝きが異質なわけだ」
イゾルデは僅かに目を細め、格調高い、しかし徹底した合理性を感じさせる声で続けた。
「私は合理主義者だ。あなたが持つその資質が、この世界を救うための真の『法』か、あるいは制御不能な欠陥品か。これからの教練で、厳しく見定めさせてもらう。……覚悟しておくことだ」
その言葉は冷たかったが、不思議とアラリックのような『正論の重圧』とは違う、どこか対等な「評価」としての響きがあった。
「――これは、朝早くから賑やかなことだ」
重厚な書庫の奥から、低く、そして全てを見通すような賢者の声が響いた。
水晶の杖をコツリと鳴らしながら、アラリックが姿を現す。
彼はまず楪(ゆずりは)に穏やかな会釈を向け、次いでプラチナシルバーの髪を持つ女性へと向き直った。
「おはようございます、イゾルデ様。……そして、フィリネ殿も。聖女様との顔合わせは、無事に済んだようかな?」
「ええ、アラリック。……彼女が持つリィマの特異性、確かにこの目で確認いたしましたわ」
イゾルデは平然と、しかしどこか絶対的な距離を保ったまま応じる。
王国屈指の賢者であるアラリックを、敬称を排して呼ぶその態度は、彼女がこの城においていかに不可侵で、卓越した地位にある魔導師であるかを無言のうちに物語っていた。
「それは良かった。今後の魔導教練については、改めて打ち合わせをさせていただきましょう」
「承知いたしました。……では、聖女様。わたくしは失礼いたします」
イゾルデは最後にもう一度、紫水晶の瞳を楪へと向けた。
「……リィマは嘘をつきませんわ。あなたが何者であるか、これからの日々で見極めさせてもらいます」
「は、はいっ! 聖女様、また今度っ。……あ、お、お仕事、頑張ってくださいね!」
フィリネが慌てて頭を下げ、イゾルデの背中を追うようにしてパタパタと廊下へ駆けていく。
彼女の小柄な身体にぴたりと沿う仕立てのよい魔法衣と、揺れる大きなリボン。
その愛らしい後ろ姿が見えなくなるまで、図書室の張り詰めた空気は、微かにその温もりを留めていた。
「さて、聖女様。嵐が去ったところで、我々も始めるとしましょうか」
アラリックが再び、静かに古文書を広げる。
「今朝は、聖なる力が大地に与える影響――その『義務』の細部について、より深く学んでいただきます。……準備はよろしいかな?」
夕刻の休息、断たれた安寧
夕闇が王城の尖塔を深い藍色に染める頃、楪(ゆずりは)はようやく自分に与えられた寝室へと辿り着いた。
エララ夫人による数時間の礼法教練は、拷問にも等しかった。背筋を伸ばし続け、指先の震えさえ許されない規律の海に溺れ、彼女の身体は鉛のように重い。
「ふぅ……っ」

重厚な扉を閉め、ようやく一人の空間。楪は力なくベッドの縁に腰を下ろし、慣れないドレスの重みから逃れるように深く項垂れた。
(……明日も、またあれをやるの? これが、ずっと続くの……?)
元の世界にいた頃の自分がいかに自由だったか。そんな、考えても仕方のない後悔が、静寂と共に押し寄せてくる。
だが、その僅かな休息さえも、扉を叩く軽やかな音によって打ち破られた。
「聖女様っ! 失礼いたしますっ!」
元気な声と共に現れたのは、ミーナだった。
小柄な身体にぴたりと沿った魔法衣の裾を揺らし、彼女は琥珀色の瞳をこれまでにないほど輝かせて、トレイに乗せたハーブティーを運んできた。
「ミーナ……。わざわざ、ありがとう」
「い、いえ! 聖女様、エララ夫人の教練、すんごく……いえ、大変だったと伺いました。これを飲んで、少しでも休んでくださいねっ」
ミーナは一生懸命に淹れたお茶を差し出しながら、溢れんばかりの喜びを隠しきれない様子で、身を乗り出した。
「あの、聖女様! 実は、さっき素晴らしいお話を聞いたんです! 王妃様が、聖女様のことを想って、パレードの予定を変更してくださったんですって!」
「……予定を、変更?」
楪の胸の奥で、嫌なざわめきが広がる。
「はい! 当初は馬車での行進でしたけど、王妃様は『民に聖女様の気高き姿を、もっと近くで見ていただきたい』と仰って……馬車は中止になったんです。代わりに、聖女様は真っ白な馬に乗って、民衆の間を進むことになったんです!」
「……え。馬に、乗るの……?」
「はいっ! 遮るもののない馬の上で、聖女様が光を振り撒きながら進むお姿……。ああ、想像しただけで、私、涙が出そうですっ。村の皆も、お父もお母も、それを見たらどんなに勇気づけられるか……!」
目の前が、真っ暗になるような感覚だった。
「……ミーナ、私。馬なんて、触ったこともないよ。そんなの、無理だよ……」
「大丈夫です、聖女様! だから明日から、午後の教練の後に**『乗馬の訓練』**も追加されることになりました! 王宮一の馬術師様が教えてくださるって、アラリック様も仰っていましたっ」
明日から、さらに。
「……明日も、午後も、ずっと……?」
「はいっ! 聖女様なら、きっと美しく乗りこなせますっ。私、全力でお手伝いしますから!」
ミーナの純粋な、一点の曇りもない期待の笑顔。
窓の外で夜が深まっていく中、楪はただ、震える手で温かいはずのカップを握りしめることしかできなかった。
第2話:白き教練、課せられた祈り(完)