朝の光は、逃げ場のないほど鮮烈な刃となって、ユズリハの閉じられた瞼を射抜いた。
意識が浮上すると同時に、昨日のパレードで暴れるアルビオンを鎮めた代償が、全身を鋭い痛みで貫く。筋肉の一繊維に至るまでが悲鳴を上げ、寝返りを打つことさえ、今の彼女には不可能に思えた。
「……う、うう……」
「おはようございます、ユズリハ様! さあ、素晴らしい公務の朝ですよ!」
弾むような声と共に、専属侍女のミーナが寝室へ飛び込んできた。
彼女の瞳は、まるで昨日の奇跡を今も目の当たりにしているかのように、純粋な歓喜と期待に満ちている。ミーナの献身的な手によって、ユズリハの強張った体は丁寧に清められ、あの忌まわしくも美しい『薄氷の聖衣(はくひょうのせいい)』へと押し込められていく。
(……痛い。でも、ミーナはこんなに喜んでる。昨日のことを、本物の奇跡だって信じてるんだ……)
着付けを終えたミーナが、最後に仕上げの『白銀外套(はくぎんがいとう)』をユズリハの肩に掛け、うっとりとした表情で鏡の中の主を見つめた。

「本当にお綺麗です、ユズリハ様。あなた様こそが、この国の……いえ、世界の希望ですわ」
外套の重みが、ユズリハの細い肩にずしりと食い込む。
それは単なる生地の重さではない。ミーナの、そして王女フィオナの、さらにアルテア全土の民衆の祈りが凝縮された、逃れられぬ運命の重圧そのものだった。
ユズリハは痛みを隠すように高潔な笑みを張り付かせ、ゆっくりと玄関ホールへの回廊を歩き出す。
巨大な扉が開かれ、外の冷気と逆光が流れ込む中。
黄金の髪をなびかせ、揺るぎない直立の姿勢で控える騎士リュカの姿が、一点の曇りもなくそこにあった。
黄金の守護者、白銀の誓約
数日前、朝霧の演習場
朝霧が立ち込める騎士団演習場に、鋭い金属音が響き渡る。

黄金の髪をなびかせ、一振りの木剣を振るうリュカの動きは、周囲の喧騒から切り離されたかのように研ぎ澄まされていた。無駄を削ぎ落としたその一撃が、模擬戦の相手を鮮やかに退ける。
「そこまでだ、リュカ。一度剣を置け」
演習場の隅で静観していた団長の声が、霧を切り裂いて響いた。
リュカは静かに剣を収め、乱れぬ呼吸のまま額の汗を拭うと、真っ直ぐに団長の前へと歩み寄った。一礼し、指示を待つその佇まいは、一点の曇りもない騎士の模範そのものだ。
「数日後、新聖女様の初公務が決まった。王都近郊にある『忘却の森』の浄化だ。……貴公をその専属護衛に推挙した」
予期せぬ言葉に、リュカの眉が微かに動く。彼は即座に受諾するのではなく、静かな、けれど確かな疑念を口にした。
「……私、でしょうか。恐れながら、団内には私より経験豊富な猛者がいくらでもおられるはずです。なぜ、まだ実績の浅い若輩の私に、それほどの大任を?」
当然の問い。それを聞いた団長は、可笑しそうに鼻を鳴らした。
「ふん、腕前だけなら貴公で十分だ。だが、最大の理由は他にある。……貴公は、女に興味がなさそうだからな。年頃の聖女様に無闇に色目を使う心配のない『無害』な男……。潔癖な神殿の連中を納得させるには、貴公のような『木石』が最適なのだ」
「無害、ですか……」
リュカの喉が、微かに揺れた。サファイアブルーの瞳に鋭い光が宿り、数秒の沈黙が場を支配する。その眼差しが何を映していたのかは、誰にも悟らせないまま、リュカは深く頭を下げた。
「……承知いたしました。任務、謹んで拝命いたします」
当日の朝、聖女の居室
ミーナの手で着付けを終えた楪の部屋に、静かな、けれど芯の通ったノックの音が響いた。
「失礼いたします、聖女様」
扉が開かれ、入ってきたのは正装の騎士服を纏ったリュカだった。
彼は楪から数歩離れた位置で足を止めると、流れるような所作で優雅に膝を突き、右手を左胸に当てて深く頭を下げた。
「騎士団長より命を受けました、リュカと申します。本日より、聖女様……貴女様の専属護衛を務めさせていただきます」
彼がゆっくりと顔を上げた。
至近距離で、サファイアブルーの瞳が真っ直ぐに楪を射抜く。
それは朝の静かな湖面のように澄み渡り、同時に吸い込まれてしまいそうなほどの深みを持っていた。あまりにも非の打ち所がないその美貌を前に、楪の心臓が、自分でも驚くほど大きく、一度だけ跳ねた。
「あ……っ。ええ、よろしくお願いします、リュカさん。私は……ユズリハです。その、不慣れなことばかりですが、頼りにしています」
動揺を隠すように名乗り返し、楪はさらに言葉を続けた。
「……もしよろしければ、聖女ではなく、名前で呼んでいただけませんか? まだその……その呼び方に慣れなくて」
切実な願い。だが、リュカの表情は一点の曇りもなく穏やかなままだった。
「……お心遣い、深く感謝いたします。ですが、今の私は貴女様の盾であり、アルテア王国の規律に殉ずる騎士。公務の間は、どうか『聖女様』と呼ばせていただくことをお許しください」
丁寧に、けれど決定的な拒絶。彼は決して『ユズリハ』という名を口にはしなかった。その誠実すぎる、冷たいまでの距離感に、楪は少しだけ胸がチクリとするのを感じ、小さく頷くしかなかった。
「……さて、これから向かう『忘却の森』ですが、かつては聖域でしたが、現在は地脈の乱れによって穢れが澱み、凶暴な魔物も出没しております。浄化の儀式の間、聖女様は精神を研ぎ澄まされ、外界に対しては完全に無防備となられます」

リュカの声が、引き締まった緊張感を帯びる。
「その間、塵一つ、穢れの一片たりとも貴女様に触れさせぬよう、この命に代えてもお守りするのが私の役目です。……共に参りましょう、聖女様」
小説の中の英雄が口にするようなその響きは、空想上の記号などではなく、切実な熱を持って楪の鼓膜を震わせた。
(……まだ名前も呼んでくれないほど遠い人が、私のために、本気で死ぬ気でいる。そんなの、どう向き合えばいいのか分からないよ)
楪は、高鳴る鼓動を必死に抑え、彼が差し出したしなやかな手へと、熱を持った自分の指先をそっと重ねた。
遠ざかる平穏、揺れる残香
アルテア王国の都を囲う、白亜の巨門が重厚な音を立てて開かれる。
規則正しく石畳を叩く蹄の音と共に、楪を乗せた馬車は、熱狂の余韻が残る都を後にした。
「……っ」
車輪が石畳の継ぎ目を拾うたび、楪の全身を鋭い痛みが走る。
ふかふかの座面がその衝撃を和らげているはずなのに、パレードで酷使した肉体は、一呼吸するごとに悲鳴を上げた。けれど彼女は、車窓のすぐ外を並走する黄金の髪を意識し、一点の曇りもない『聖女の微笑み』を、仮面のように顔に張り付かせ続ける。
(……痛い。でも、悟られちゃいけない。都の人たちにも、そして……彼にも)
窓越しに映る騎士、リュカの背中は、馬上にあっても寸分の乱れもなく、一点の曇りもない直立の姿勢を保っていた。
サファイアブルーの瞳が周囲を警戒し、白銀の甲冑が陽光を反射して眩しく輝く。団長に『無害な男』と評されていたその人は、今、楪の瞳には、どんな魔物も寄せ付けない圧倒的な『守護者』として映っていた。
やがて、賑やかだった街道の音は遠ざかり、空気は少しずつ湿り気を帯びた冷たさへと変わっていく。
不意に、窓の隙間から滑り込んできた風が、楪の鼻先をかすめた。
(……え?)

それは、鉄の匂いや馬の汗、土埃といった戦う者の象徴ではない。
どこか懐かしく、ひどく繊細な――朝露に濡れた花のような、甘い香り。
楪は戸惑い、思わずリュカの横顔をじっと見つめた。風に躍る黄金の髪、手綱を握るしなやかな指先。その指は、武骨な戦士のそれとは思えないほど細く、どこか儚い白さを湛えているように見えた。
「聖女様、気分は悪くありませんか?」
視線に気づいたのか、リュカがこちらを向いて微笑んだ。
それは城内で誰もに向ける『完璧な騎士』の表情だったが、その響きには、彼女の緊張を解きほぐそうとする、不思議な柔らかさが宿っている。
「……大丈夫、です。ただ、少しだけ風が心地よくて」
嘘をついて、楪は慌てて視線を逸らした。
胸の高鳴りは、身体の痛みとはまた違う、熱い痺れとなって彼女の内側に広がっていく。
前方の視界に、昼間でも光を拒むような深い緑が広がり始めた。
『忘却の森』。その入り口が近づくにつれ、リュカの纏う空気が、鋭利な刃のように一点の曇りもなく引き締まっていくのを、楪は肌で感じていた。
森の境界、守護の背中
都を出てから数時間。ようやく馬車の速度が落ち、車輪が止まる予兆を見せたところで、向かいに座っていたミーナが心配そうに楪の顔を覗き込んだ。
「ユズリハ様、顔色が良くないです。……やっぱり、体が痛みますか?」
「大丈夫よ、ミーナ。少し揺れに酔っただけだから」
嘘を吐いて、楪は無理に微笑んだ。
昨日のパレードで酷使した全身の筋肉が、馬車の振動に削られて悲鳴を上げている。
けれど、異世界の親友である彼女にだけは、これ以上余計な心配をかけたくなかった。
外からカチリ、と扉が開かれる音が響く。
「聖女様、到着いたしました」
扉の向こうに立っていたリュカは、外した白銀の籠手を左脇に抱え、右手を恭しく差し出してきていた。
一点の曇りもない礼節を保ったその掌からは、剣を握る者特有の確かな厚みが伝わってくる。
(……あ)

重い脚を引きずるようにして、楪はその熱を帯びた手に、震える指先をそっと重ねる。
肌と肌が触れ合った瞬間、その体温と共に、彼の袖口からあふれ出したあの『甘い香り』が、密室だった馬車の中に濃密に溶け込んでいった。
「感謝、します。リュカさん」
「……お気になさらず」
彼に支えられ、地面へと降り立つ。背後では随行の馬車から学者たちが降り、重い魔導測定器を運び出す騒がしい音が響き始めていた。
「ここからは徒歩での進行となります。……聖女様、決して私から離れないでください」
リュカが再び籠手を嵌め、背後に控える護衛騎士たちへ鋭い視線で号令を下した。
「第一、第二班は左右の警戒を密に。第三班は後方の学者殿たちを円陣で囲え。……一切の油断を捨てるように」
「ハッ!」
騎士たちの鋭い返唱と、甲冑が激しく擦れる重厚な音が響き渡る。
「それにしても……ユズリハ様。リュカ様って、近くで見ると本当にお綺麗な方ですね」
隣を歩くミーナが、前方を行くリュカの背中を盗み見るようにして、声を潜めた。
「お城の侍女たちの間でも、リュカ様は一番人気なんですよ? 物静かで、誰にでも礼儀正しくて……あんなに素敵な騎士様は他にいないって、みんな夢中なんです」
「……ええ。本当に、隙がないくらい整った人ね」
楪は不意を突かれ、頬が微かに熱くなるのを感じながら答えた。
単なる容姿の話だ。けれど、先ほど触れ合った掌の熱や、彼の纏うあの甘い香りを思い出すと、視線をどこに置いていいのか分からなくなる。
城中で人気だという話を聞いて、胸の奥が少しだけ、チリと疼くような妙な感覚に襲われた。
※※※
一団が森の奥へと足を踏み入れた瞬間、楪は思わず息を呑んだ。
都の石畳とは違う、湿り気を帯びた土の感触。
見上げるほど巨大なシダ植物が道を覆い、足元では見たこともない極彩色の花が冷たい風の中で揺れている。
日本の森とは決定的に違う、生命力が飽和したような異世界の自然に、楪は圧倒された。
「……すごい。見て、ミーナ。あの花、花びらの中が光ってるみたい……!」
捻じ曲がった大木の根元に咲く、淡い群青色の花『夜露の雫』。初めて見る異世界の光景に、楪は痛みも忘れて目を輝かせ、思わず一歩踏み出そうとした。
だが、その袖をミーナが鋭く掴んだ。

「……待ってください、ユズリハ様。これ、変です。私の田舎の山と、全然違います。土が死んだみたいな匂いがするのに、植物だけが妙に元気すぎて、気持ち悪いです」
ミーナの震える声に、楪の胸がどくん、と嫌な音を立てた。
「魔素による変質です。……ミーナ殿の言う通り、この静寂は異常だ。全員、武器を構えておけ」
リュカの声が低く響き、騎士たちが一斉に抜剣の準備にかかる。
日本の森とは決定的に違う、何かに見張られているような気味の悪い感覚。
香炉の煙が重苦しく澱む中、耳鳴りがするほどの沈黙。その糸が、唐突に引き千切られた。
――ガサッ、バキッ!!
右手の茂みの奥で、何かが激しく跳ね、枝を折る音が爆音のように響いた。
「ひっ!?」
楪は短い悲鳴さえ上げられず、その場に氷付いたように硬直した。
後ろでは学者たちが「魔物か!?」と叫び、顔を真っ青にして後退する。「前方、迎撃態勢!」「囲め!」と騎士たちの怒号が飛び交い、十数本の剣が鞘を走る金属音が森を暴力的に埋め尽くした。
「――下がれ!」
爆ぜた殺気の中で誰よりも早かったのは、やはりリュカだった。
悲鳴が上がるのと同時、リュカは音もなく楪の前へ滑り込み、その華奢な肩を包み込むようにして死角へ押し込んだ。
(……っ。リュカ、さん。怖い。この人の背中から、今まで一度も感じたことのないほど冷たい殺気があふれてる。
なのに、肩に回された腕からは、火傷しそうなほど熱い体温が伝わってきて……。この甘い香りに包まれているだけで、心臓の音がうるさくて、息ができなくなる……)
カチリ、と微かな抜刀の予備音が響く。一分の隙もないリュカの背中は、他の騎士たちがようやく剣を構えた頃には、既に完成された『盾』となって立ちはだかっていた。
張り詰めた空気を破って飛び出してきたのは、長い耳を交互に揺らす、小さな森兎だった。
兎は騎士たちが放つ殺気の壁に怯え、弾丸のような速さで森の奥へと逃げ去っていく。
「…………ただの野生動物だ。構えを解け」
リュカが短く命じると、騎士たちが荒い息を吐きながら剣を収めた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。……ですが聖女様、決して、私から離れぬよう」
リュカが振り返り、まだ震えの止まらない楪を静かに見つめる。
「……はい。……ありがとうございます、リュカさん」
差し出された彼の手を、楪はしがみつくように、指先が白くなるほど強く握り返した。
「ユズリハ様! ……大丈夫ですか? すごく震えて……」

駆け寄ってきたミーナが、楪の肩を抱こうとして――ふと、その視線が二人の重なった手に止まった。
銀の籠手に覆われたリュカの大きな手と、そこに必死に縋り付く楪の小さな指。
当の楪は、溢れそうな涙を堪えながらリュカの背中を仰ぎ見るのに精一杯で、自分がどれほど大胆に彼の手を握り締めているかに全く気づいていない。
(あら……? あらあらあら……!)
ミーナは一瞬、心配そうに眉を下げたが、次の瞬間にはその瞳に悪戯っぽい光が宿った。彼女は楪に気づかれないよう、口元を隠して「ニヤリ」と意味深な笑みを浮かべる。
「……うふふ。そうですね、ユズリハ様。リュカ様がこれだけしっかり守ってくださるなら、もう『一歩も』離れないのが一番安心かもしれませんね」
「え、ええ……。そうね」
ミーナの言葉の裏にある『含み』に気づかないまま、楪は深く頷き、さらにその手を強く握りしめた。
掌を通して伝わる、冷たくて硬い銀の感触。
それとは裏腹に、胸の奥には火傷しそうなほどの熱と、彼から漂うあの甘い香りが、世界の中で一点の曇りもなく鮮やかに刻み込まれていた。
浄化の泉、静寂の豹変
森の最深部。そこに広がる『浄化の泉』を目の当たりにした瞬間、楪は立ち竦んだ。
かつては聖域と呼ばれたその場所は、今や巨大な澱みの底だった。水面はどろりと濁り、岸辺の植物はすべて立ち枯れて、奇妙に捻じ曲がった黒い枝が水底へ向かって手招きしている。
「魔導装置、設置完了!……ひどい数値です。都の十倍、いえ、二十倍近い魔素が、この狭い空間に閉じ込められている……」
学者が震える手でダイヤルを回し、顔面を蒼白にしながら報告を上げる。
周囲を固める十数名の騎士たちも、いつになく口数が少ない。彼らの甲冑が重なり合うガチャリという音さえ、この森の異常な沈黙に吸い込まれて消えていく。
「聖女様、準備が整いました。……ご気分は?」
リュカが静かに歩み寄り、楪の顔を覗き込む。
彼の瞳は穏やかだったが、その手は既に剣の柄へと置かれていた。
「大丈夫、です……。始めますね」
楪は嘘を吐いた。本当は、膝が笑って立っているのが精一杯だった。
昨日の浄化で酷使した魔導回路――背中から腕にかけて走る神経の痛みが、冷たい空気と共鳴するように疼き始める。
ぬかるんだ土を踏み締め、泉の淵に膝を突く。

楪がそっと両手を組み、目を閉じた。呼吸を整え、内側に眠る聖なる力を手繰り寄せる。
(……お願い。どうか、この森に光を……)
祈りが始まった直後、彼女の指先から柔らかな光が溢れ出した。
それは糸のように細く、頼りなく、濁った水面へと伸びていく。
同時に、楪の体内を、灼熱の鉄を通されたような痛みが走り抜けた。
「……っ、う……」
思わず漏れそうになる悲鳴を、唇を噛んで堪える。額に脂汗が滲み、組んだ指が白く震えた。
一分、二分……。長い沈黙が流れる。
浄化の光が泉に浸透していくにつれ、水面の濁りが、わずか、本当にわずかに薄らいで見えた――その、均衡が崩れたのは唐突だった。
ボコッ……。
足元の水面から、不気味な気泡が湧き上がる。
「……? 数値が、逆流している? 聖女様の浄化を、拒絶しているのか……!?」
学者の困惑した声が響いた瞬間、泉の底から地鳴りのような咆哮が沸き起こった。
――ガァァァァァァァァ!!!
「ひっ!?」「うわぁぁぁ!」
泉の中心が爆発したように跳ね上がり、そこからどす黒い魔障――地脈の毒が凝縮された、巨大な不定形の腕が何本も噴き出した。
「陣形を保て! 聖女様を守れ!」
騎士たちの怒号が飛び交う。だが、祈りの最中にあり、全身を激痛に拘束されている楪は、一歩も動くことができない。
彼女の目の前で、鞭のようにしなった魔障の腕が、空気を切り裂いて迫り来る。
(あ……だめ。逃げなきゃ、なのに……脚が……)
死の予感が視界を真っ白に染める。逃げ惑う学者たちの悲鳴と、騎士たちの抜剣の音が、スローモーションのように遠ざかっていく。
だが、その絶望的な静寂を、一筋の『香り』が貫いた。
ふわりと鼻を掠めた、甘く、それでいて鋭利な香り。
「――遅い」
それは、魔障に対して放たれた言葉か、あるいは間に合わなかった自陣の騎士たちへの嘆きか。
氷のように冷え切ったリュカの声が、すぐ背後で響いた。
キィィィィィィィン!!

鼓膜を劈くような高周波の音が、一度。
楪に触れようとした魔障の腕が、彼女の髪一筋に触れる前に、まるで目に見えない障壁に砕かれたかのように霧散した。
(……え?)
何が起きたのか、楪には理解できなかった。
ただ、彼女を貫こうとした無数の触手が、一瞬にして黒い塵へと変わり、泉の底へと沈んでいくのを見ただけ。
一分の隙もないリュカの背中は、魔障の中枢へと肉薄し、次元を超えた剣戟で穢れそのものを『断罪』していた。
残ったのは、夜の闇よりも深い、圧倒的な静寂だけだった。
「…………あ……」
ようやく剣を抜き、防御の姿勢を整え終えた一人の騎士が、言葉を失ったまま立ち尽くす。
周囲の騎士たちも同様だった。誰もが抜いた剣を構えたまま、まるで時間が止まったかのようにリュカの背中を凝視している。
それは、賞賛を口にする暇さえ与えないほどの圧倒的な実力差。
己たちが必死に抗おうとした絶望を、呼吸一つ乱さず塵に変えてみせたその背中は、あまりに遠く、異質なほどに研ぎ澄まされていた。
畏怖。あるいは、人という枠組みを軽々と踏み越えてしまった者への、言葉にならない戦慄。森の沈黙は、今や彼一人の凄みによって支配されていた。
血糊一滴ついていない剣を、リュカがカチリと音を立てて鞘に納める。
彼はゆっくりと振り返ると、まだ震えの止まらない楪の前で膝を突き、その手をそっと、自分の籠手で包み込んだ。
「失礼いたしました。……もう、大丈夫です。聖女様」
いつもの穏やかな、非のうちどころのない微笑。
だが、その籠手を通して伝わってくる彼の指先が、今までになく激しく震えているのを、楪だけは一点の曇りもなく感じ取っていた。
残香の誓い、白銀の仮面
リュカが剣を納め、静寂が戻った泉で、楪は最後の一力を振り絞った。
視界は白く霞み、体内の魔導回路は焼き切れるような痛みを訴えていたが、彼女は必死に組んだ指を解かなかった。
(……お願い。もう、少しだけ……っ!)
心臓の鼓動が耳元でうるさく打ち鳴る中、彼女が最後の祈りの言葉を紡ぎ切ると、掌から溢れた光が波紋となって泉全体へと広がっていった。
「……浄化、完了! 異常数値、消失しました! 完全に、一点の曇りもなく消えたぞ!」
「見てくれ、水が……! 森が息を吹き返していく!」
学者の歓喜に近い報告が響き、騎士たちが一斉にどよめいた。泥水が透き通った水晶のように輝き出し、立ち枯れていた木々の枝から、瑞々しい若葉が奇跡のような速さで芽吹いていく。
「聖女様……。本物の、聖女様だ……」
ある騎士が剣を納め、感極まったようにその場に跪く。周囲の人々の興奮と安堵が、熱狂となって楪の背中に押し寄せた。
「……っ……はぁ、……っ」
だが、極限の集中が途切れた瞬間、楪の全身から力が抜けた。
周囲の歓喜の声が、急速に遠ざかっていく。膝から崩れ落ちそうになったその時、硬い銀の感触が、迷いなく彼女の肩を抱き止めた。
「聖女様!」
リュカだった。彼は既に楪の隣へ膝を突き、意識を失いかけた彼女をその腕の中にしっかりと収めている。
「……ぁ、リュカ……さん。……浄化、できた……?」
「はい。聖女様が、見事に。……もう十分です。後は我々に任せて、どうかお休みください」
喧騒の中心にあって、リュカの声だけが不思議なほど穏やかに、楪の心に染み込んだ。
彼女を支える籠手の奥で、彼がまだ僅かに呼吸を乱していることに気づきながら、楪は静かに意識を微睡(まどろ)みへと預けた。

――目が覚めた時、そこは帰路を行く馬車の中だった。
カーテンの隙間から差し込む夕刻の赤い陽光が、狭い車内を斜めに切り裂いている。
車内には、正面に座り彼女を見守るリュカの二人しかいなかった。
「……お目覚めですか、聖女様」
リュカが静かに口を開いた。彼の左脇には、戦場で一度外されたはずの白銀の籠手が、再び置かれている。
ふと視線を落とすと、彼の右手が、膝の上で微かに震えているのが見えた。
「……あの、リュカさん。手……大丈夫ですか?」
楪がそっと尋ねると、リュカは一瞬、弾かれたようにその手を隠そうとした。だが、彼女の真っ直ぐな瞳に射抜かれた彼は、諦めたように小さな溜息を漏らす。
「お恥ずかしいところを。……神速の剣は、肉体への負荷がそれなりに重いのです。私の未熟ゆえ、まだ完全に御(ぎょ)しきれていないのでしょう」
「未熟だなんて、そんな……! 私、びっくりしました。あんなに綺麗で、圧倒的な……」
「……私のような異質な力、普通なら『不気味』だと遠ざけたくなるものでしょうに」
リュカが、どこか自嘲気味に目を細めた。その表情に、楪の胸がズキンと痛む。
彼女はためらわず、自分から手を伸ばし、彼の震える右手をそっと両手で包み込んだ。
「え……?」
「私、わかります。リュカさんの手……冷たいけれど、すごく一生懸命で、温かい。……今日、私を助けてくれたのは、この手ですから」
触れ合った瞬間、またあの『甘い香り』が車内に溢れ出した。
だが、今の楪には分かった。この香りは、剣技や魔力のせいなどではない。
無機質な鎧や冷たい鉄の響きとは対極にある、ひどく熱く、そして……騎士のそれとは信じがたいほどに、しなやかで柔らかな『誰か』がそこにいる。そんな、本能が揺さぶられるような体温の香りなのだと。
「…………貴女様は、本当に。……不思議な方だ」
リュカが、初めて仮面を脱いだような、無防備な顔で呟いた。
彼は楪の小さな手に、自身の手を静かに重ね返す。
「聖女様。……この香りは、私の消しようのない『秘密』のようなものです。いつか、貴女様を惑わせてしまう時が来るかもしれない。ですが……」
彼はそこで言葉を切ると、握り合った手に少しだけ力を込めた。
「その時が来るまでは、私が貴女様の盾となりましょう。たとえ、この身がどうなろうとも」
第4話:深緑の浄化、黄金の閃光(完)