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聖女の詩、白の余白 ー 第8話:断絶の境界、残された誓い

凍月 楪

窓から差し込む朝の光が、宿の簡素な石壁を白く透き通らせていた。
冷ややかな空気の中に混じる、微かな朝露の匂い。楪は、ゆっくりと意識の底から浮上し、そのアメジスト色の瞳を静かに開いた。

「……ん……っ」
腕に伝わる確かな重みと、肌を掠める柔らかな質感。視界を占拠したのは、朝日を浴びて淡く輝くフィオナのピンクシルバーの髪だった。
彼女は楪の腕を、まるで離してはならない宝物のようにぎゅっと抱きしめ、規則正しい寝息を立てている。

「フィオナ様……?」
そっと名を呼んでみるが、返ってくるのは安らかな吐息だけ。
ふと部屋の隅に目を向ければ、そこにはシーツ一つ乱れていない、もう一台のベッドが所在なさげに佇んでいた。
(……ベッド、二つあるのに)

隣の客室からは、何の音も聞こえてこない。
霊峰で多くの護衛騎士を失い、唯一生き残ったリュカもまた、深い傷を負って自室に閉じこもったきりだ。
「秘蔵のポーションで処置するから、一人にしてくれ」という彼の拒絶は、敗北のショックゆえか、あるいは。何にせよ、その頑なな沈黙は、残された彼女たちに凄惨な別れの光景を否応なしに思い出させた。
暗闇に怯え、血の匂いを恐れ、独りで夜を越すことなど到底できなかったフィオナが、深夜にこうして忍び込んできたのだろう。

呆れ半分、愛おしさ半分。楪は、自分を抱き枕のようにして眠る少女の重みを、じっと噛み締める。
その無防備な寝顔を見ていると、霊峰での惨劇も、隣室で独り痛みに耐えているはずの騎士の苦悶も、すべてが遠い夢の出来事のように思えてしまうのだった。

薄明の素肌、遠ざかる聖域

宿の廊下は、朝の光が斜めに差し込んでいるというのに、身を切るような冷気に満ちていた。
楪が部屋の重い木扉を開けると、そこには昨夜から一睡もしていないのであろうリュカが、影のように佇んでいた。

壁に預けた背中には、隠しきれない疲弊が黒い染みのように滲み出している。
リュカがゆっくりと顔を上げると、その表情は朝日を浴びてなお陶器のように白く、唇からは痛々しいほどに血の気が失われていた。

「……フィオナ様、そしてユズリハ様。おはようございます」
リュカの声には、昨夜までの張り詰めた透明感はなく、重い鉛を飲み込んだような濁りが混じっている。
楪は彼の肩が、呼吸をするたびに小さく、だが絶え間なく震えているのを見逃さなかった。

「リュカさん、顔色が悪いです。本当に大丈夫なんですか? その怪我で、御者台に座るなんて無茶ですよ」
楪が案じて手を伸ばしかけると、リュカはそれを制するように、手袋を嵌めた手を静かに差し出した。

「……お気になさらず。秘蔵の薬を用いましたので、傷はすでに塞がっております。
私がいなければ、どなたが皆様を王都までお送りできるというのです。……さあ、時間はございません。一刻も早く、この場所を離れましょう。一秒でも長く、あの死神の射程圏内に留まるわけにはいかないのです」
無理に唇を綻ばせて紡がれたその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせる呪文のようだった。
それは彼が背負う『騎士』という生き方、そして何としてもこの場を切り抜けようとする、あまりに孤独な虚勢だった。

宿の外に出ると、凍てついた空気の中に、馬たちの荒い鼻息が白く混じっていた。
昨夜、血塗れでたった一人帰還したリュカの姿を目の当たりにした侍女たちは、それぞれのやり方でその絶望を飲み込んでいた。

「アンナさん、そんな……。そんな怖い顔で黙り込まないで、何か言ってください……っ」
ミーナが、震える声で先輩の背中に呼びかける。返事がないことに耐えられず、彼女の瞳には今にも涙が溢れそうだった。
だがアンナは、一言も発さず、白く強張った指先で淡々と荷物を馬車へ固定し続けていた。

「……無駄口を叩いている暇はありません、ミーナ。手を動かして。今は、それ以外にできることはないのですから」
アンナの横顔は、もはや生きた人間のそれではなく、精密に作られた人形のようだった。騎士団の全滅が意味する「詰み」を理解しているからこそ、職務という唯一の縋り付きで、辛うじて正気を繋ぎ止めている。その冷徹なまでの手際が、逆に「もう助からない」という宣告のように思えて、ミーナはただ息を呑むしかなかった。

 

※※※

 

馬車が走り出すと、車内は軋む車輪の音と、重苦しい沈黙だけが響く密室となった。
フィオナは楪の腕に顔を埋め、まるで幼子が母親を求めるように、その細い体温に必死に縋り付いている。

「ねえ、ユズリハ……。本当に、王都まで帰れるのよね? またあの暗殺者が、道を塞いでいるんじゃないかしら」
フィオナの掠れた声に、向かいの席に座るアンナとミーナが、弾かれたように身を竦めた。
「大丈夫ですよ、フィオナ様。王都内に入ってしまいさえすれば、あのような死神とて、そう容易くは手出しできません。あそこは警備隊の巡回も厳しく、衆人の目がある場所ですから。無法が許されるほど、この国は甘くありません」
楪は王女の震える肩を抱き寄せ、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「……でも、ユズリハの手、すごく熱い。貴女まで、どこか遠くへ行ってしまいそうで、怖いの」
王女の震える指先が、楪の肌を直接なぞる。
その感触に、楪は自身の身体の内側からじわじわと這い上がってくる『得体の知れない熱』を自覚せずにはいられなかった。
あの温泉で植え付けられた、呪いのような微熱。身体の芯を重く侵食する泥のような熱が、馬車の振動に煽られ、不吉な波紋となって全身へ広がっていく。

御者台のリュカから漂う、消えない血の匂い。そして、隣り合うフィオナの怯えを含んだ甘い体温。それらが混ざり合い、楪の理性を泥濘(ぬかるみ)のように蝕んでいく。
(熱い……。この熱が、私を内側から作り変えようとしてるの?それとも、この絶望そのものが……)
今、この瞬間でさえ、自身の深淵には昏い何かが根を張ろうとしているのか。楪はその恐ろしさに、唇を噛み締めて目を閉じた。

馬車は次第に速度を上げ、王都手前の深い峡谷へと差し掛かった。
切り立った岩壁が空を細く切り取る、逃げ場のない「袋小路」。
「……くっ、ポーションの効きが、甘いか……」
御者台から、リュカの苦悶に満ちた呟きが風に乗って聞こえてきた直後、馬車の速度が不自然に落ちる。

「……っ! 前方に光の歪み! 全員、伏せてください!!」
リュカの喉を裂くような戦慄の叫びが響き渡った、次の瞬間だった。
――ズドォォォォンッ!!
天から降り注いだ巨大な『光の杭』が、鼓膜を直接叩き割るような衝撃音と共に、馬車の前輪へと突き刺さった。

「――っ!!?」
凄まじい衝撃波。バキバキと車軸がへし折れる断末魔が響き、砕け散った車輪の破片が散弾となって車体を打つ。前方にのめるようにして跳ね上がった馬車は、凄まじい反動を車内の楪たちへと叩きつけた。
「きゃああっ!!」
ミーナとフィオナの悲鳴が重なり、楪の身体は座席から投げ出されそうになる。楪は必死に腕の中の王女を抱き寄せ、座席の端に指が食い込むほど力を込めて耐え抜いた。

ギギィィィィッ! と、車輪を失った車体が地面を削る、耳障りな金属音が峡谷に反響する。火花を散らしながら、馬車は斜めに沈み込んだまま、不自然な静寂の中に停止した。
間髪入れず、外側から歪んだ扉が強引に引き絞られる。

「フィオナ様……っ! ユズリハ殿、皆様、ご無事ですか!?」
御者台から飛び降りたリュカが、粉々に砕けた窓硝子の隙間から車内へ叫んだ。煤にまみれたその顔には自身の負傷を顧みる余裕もなく、ただ主の安否を問う必死さだけが宿っている。
「……っ、はい。フィオナ様は私が……。アンナさんもミーナも、打撲はひどいみたいだけど、意識はあります!」
楪が割れた窓越しに答えると、リュカは一瞬だけ安堵の表情を見せたが、すぐにその瞳を鋭く凍りつかせた。
「よかった……。そのまま動かないでください、絶対に外に出ないでください! ……来ます!」

リュカは鋭く剣を引き抜くと、唯一の出入り口である扉の前に立ちはだかり、土煙の向こう側へと向き直った。
満身創痍の身体を奮い立たせ、愛剣の切っ先を鋭く正面に据えて『何か』を迎え撃つ、鉄壁の守護の構えだ。

舞い上がる土煙が充満する薄暗い車内では、アンナが顔面を蒼白にしながらも、震えるミーナを庇うようにしっかり抱きしめ、外の様子を伺っている。
楪もまた、フィオナの小さな身体をさらに強く引き寄せ、その震えを自身の肌に感じた。

静止した木の箱の中で、外界から響く一定のリズムを刻む足音と、自身の耳元で騒ぎ立てる心臓の鼓動だけが、残酷なほど鮮明に響き渡る。

ザッ、ザッ……と、砂利を踏みしめる不気味なほどに清浄な足音が、馬車のすぐ側でぴたりと止まった。
直後。カチリ、と硬質な音が響き――耳障りな風の音も、馬の嘶きも、あらゆる外界の音が急速に遠のいていく。代わりに支配したのは、冷徹なリズムで時を刻む、時計の秒針の音だけだった。

逆光を背負い、扉の前で剣を構えるリュカの姿を塗り潰すようにして、純白の、体に吸い付くような素材でできた、修道士のような装束を纏った男の影が入り口に深く差し込んできた。
その手には銀色の鈍い光を放つ懐中時計が握られている。
「……生命(リィマ)という名の、醜い雑音を確認した。これより、汚れなき静寂(アル・カ)による『浄化』を執行する」
暗い車内を射抜くようなその白き輪郭は、救いというにはあまりに冷たく、逃れようのない死の宣告そのものだった。

白き執行者と静寂の檻

――時間が、死んだようだった。
馬車の前輪を粉砕した衝撃の余韻が、渓谷の岩壁に反響しては、どこまでも続く沈黙の中に吸い込まれていく。
舞い上がる砂塵の向こうから、一人の男が歩み寄ってくるのが見えた。

純白の修道士装束は、この煤けた戦場において異質なほどに汚れがない。
執行者ラザス。彼は無造作に左手の銀の懐中時計を開き、その秒針が刻む冷徹なリズムを、ただ淡々と瞳に映し出していた。
「……生命(リィマ)の脈動、予定より三秒超過。……許容範囲か」
低く抑えられた声が、風の止んだ隘路に響く。彼は一度も顔を上げず、ただ機械的に、事務的に『死』の時刻を測っていた。

「……生命(リィマ)の脈動、予定より三秒超過。許容範囲か」
ラザスは独り言のように呟き、パチンと音を立てて時計を閉じた。ようやく顔を上げたその瞳には、目の前の騎士も、破壊された馬車も、ただの観測対象としてしか映っていない。

馬車の前に立ちはだかり、剣を構えていたリュカが鋭く声を飛ばす。
「何者だ。……これ以上近づけば、容赦はしない」
だが、ラザスは歩みを止めない。返ってきたのは、感情の欠落した短い宣告だった。
「雑音(ノイズ)だな」

ラザスの周囲に白き光が収束したかと思った瞬間、空気が爆ぜた。
リュカが踏み込むよりも早く、不可視の衝撃が彼の胸元を捉える。鉄の肩当てが悲鳴を上げ、リュカの身体は木の葉のように後方へと吹き飛ばされた。
「ガ、ハッ……ッ!?」
岩壁に背中を打ち付け、砂利の上に膝をつく。一撃。防ぐ術すら見えない、圧倒的な実力の差だった。

ラザスは倒れた騎士を一瞥もせず、止まった馬車の扉へと手をかけた。
金属のラッチが乾いた音を立てて外れ、磨かれた木のパネルに白い指先が沈む。
「……出てくるがいい、不純物(ノイズ)共。浄化の時間だ」

扉が、勢いよく外側へ跳ねのけられた。
車内に差し込む急激な陽光に、楪は思わず目を細め、喉を鳴らした。心臓の鼓動が、耳の奥で爆音のように打ち鳴らされる。
背後では、アンナに抱きしめられたミーナが短い悲鳴を上げ、フィオナは楪の服を、ちぎれんばかりの力で掴んでいた。

「ひっ……あ、あ……」
怯える少女たちの震えが、楪の背中に伝わってくる。
逆光の中に立つラザスの姿は、逃げ場のない渓谷を完全に塞ぐ死神の影となっていた。
楪は膝の震えを必死に抑え、フィオナを庇うように一歩前へ踏み出す。射抜くようなラザスの視線と、正面からぶつかった。

開け放たれた扉から、渓谷の乾いた風が車内へと流れ込む。
逆光の中に立つラザスの影が、狭い車内を塗り潰すように長く伸びていた。
アンナは隣で身を固くするミーナを庇うように引き寄せ、その手前で、楪は自分と同じ18歳の王女、フィオナの前に立ちはだかった。

ラザスは無機質な瞳で車内の全員を検分し、懐中時計の蓋を閉じた。その響きは、この場にいる全員の運命を切り離す音に聞こえた。
「計測不能の雑音。そして、不純な意志を宿した聖女。……残らず浄化の地へ運ぶ必要がある」
感情を削ぎ落とした声は、逃げ場のない渓谷を完全に塞ぐ壁のように、彼女たちの退路を断った。

ラザスが指先をわずかに動かすと、外で倒れていたリュカの周囲に数本の「白き杭」が突き刺さった。それは物理的な衝撃ではなく、強力な斥力としてリュカの自由を奪い、彼を地面から強引に引きずり起こした。
「ぐ……あ……っ!」
満身創痍のリュカが、呻き声を上げながら膝を屈した状態で空中に固定される。その首元には、逃れようのない死の光が突きつけられていた。

「三秒以内に選択しろ。……お前たちが自ら歩み出さないのであれば、この騎士から順に『不要物』として破棄する」
「……待ってください。分かっています。従いますから、その人たちには、これ以上手を出さないで……」
楪は声を震わせながら、鋭く言い放った。リュカの命、そして背後で恐怖に耐えるフィオナやアンナを守るためには、もはやこの男に屈する以外の選択肢は残されていなかった。

「ひっ、うあぁ……っ……」
馬車から引きずり出されたミーナは、膝を突き、砂利に顔を埋めて咽び泣いた。その隣で、アンナは震える手でミーナの肩を抱きながら、ラザスを刺し殺さんばかりの鋭い視線で睨みつける。
「……汚らわしい。主(あるじ)に無礼を働いて、ただで済むと思っているの」
絞り出すようなアンナの呪詛を、ラザスは一瞥もくれずに聞き流した。

楪は、隣に立つフィオナの手を強く握りしめた。フィオナは顔を青白くさせながらも、王女としての矜持を保とうと唇を噛み締めている。
二人の間に、言葉にならない絶望と、それでも折れない意志が通い合った。
視線の先には、黒外套の部下二人に両脇を抱えられ、引きずられるように歩かされるリュカの姿がある。屈辱に顔を歪めながらも、彼は必死に足を動かそうとしていた。
「リュカ様……」
楪が名を呼ぶが、リュカは声にならない呻きを漏らすことしかできない。その光景は、彼女たちの希望が完全に潰えたことを残酷に示していた。

ラザスは懐中時計を確認し、頭上の絶壁へ向かって静かに片手を上げた。
「――予定通りだ。雑音を回収しろ」
その合図に応じるように、渓谷の影から黒い外套を纏った数人の男たちが音もなく姿を現した。彼らは一言も発さず、訓練された動きで馬車の残骸を包囲し、囚われた一行へと距離を詰めてくる。

「離して! 触らないで!」
アンナが男たちの手を拒絶し、激しく抵抗する。だが、感情を排した部下たちは、機械的な手際で彼女たちの手首へ重い金属の枷を嵌めていった。ミーナの泣き声と、アンナの怒号が渓谷に虚しく反響する。

やがて渓谷の奥から、窓のない頑強な移送用の黒塗りの檻馬車が姿を現した。ラザスは部下たちが彼女たちを車内へと押し込む様子を、まるで帳簿をつけるかのような冷めた目で見届けていた。
「……浄化の地での再計測を待て」
ラザスが独り言のように呟き、自らも別の車両へと乗り込む。

扉が重々しい音を立てて閉じられ、外の光が完全に遮断された。
揺れ始めた馬車の中で、楪は暗闇に沈むフィオナの気配を感じながら、静かに目を閉じる。
渓谷に残されたのは、無惨に破壊された馬車の残骸と、風に舞うわずかな砂塵だけだった。

第8話:断絶の境界、残された誓い(完)


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