王宮の朝は、静謐な光と共に訪れる。しかし、聖女の私室に流れる空気は、陽光さえも凍りつかせるような重苦しい沈黙に支配されていた。
「……。……。……はいっ、できましたっ! ユズリハ様、今日もお髪(ぐし)がとっても綺麗ですっ! 完璧ですよっ!」
その静寂を、ミーナの快活な声が無理矢理に突き崩した。鏡の前、法衣を纏い椅子に座る楪(ユズリハ)は、自分の顔を映す鏡を見ることさえできず、ただ膝の上で震える指先を凝視している。

「……。……ありがとう、ミーナ」
「い、いえっ! あの……ユズリハ様、今日はお元気がないようですが……。まだ、お眠いのでしょうか……っ?」
ユズリハの消え入りそうな返答に、ミーナは首を傾げながら、部屋の入り口に直立不動で控えている護衛騎士へと視線を向けた。
「リュカ様も、今日は一段と表情が硬いですよっ! マントの襟をそんなにきつく締めて、お苦しくは無いのですか……っ?」
無邪気なミーナの手が、リュカの襟元へ伸びようとする。その瞬間。
「……っ、触れないでください」
リュカの声は、いつもの穏やかさを保ってはいたが、氷の刃のような鋭さを含んでいた。差し出されたミーナの手が空中で止まり、部屋の温度がさらに数度下がったような錯覚が走る。
「ふふっ……。もしかして、お二人とも『夫婦喧嘩』でもされたのですかぁっ?」
ミーナは、鏡に映る二人の硬い表情を交互に覗き込みながら、悪戯っぽくニヤリと笑った。彼女にとってそれは、主とその騎士の仲の良さを冷やかす、いつもの他愛のない冗談のつもりだった。
「……っ!」
「な……っ」
刹那、部屋の空気が張り詰めた弦のように鳴った。
(……夫婦……喧嘩……?)
ユズリハの脳裏に、昨夜の薄明の中で触れた、リュカの首筋の「不浄な熱」が鮮烈に蘇る。愛する人が、自分ではない誰かの欲望に、その身を、その尊厳を差し出していたという事実。それがただの喧嘩(いさかい)であったなら、どれほど救われただろうか。
「ミーナ、滅多なことを言うものではありません。……ユズリハ様を、私のような者と並べるなど……。それは不敬に当たります」
リュカの声は、震えるほどに低く、そして静かだった。彼はマントの襟を一層きつく握りしめる。指先に伝わる生地の感触が、まだそこに残っているはずの、公爵の唾液の湿り気を思い出させ、吐き気が胃の腑からせり上がる。
「あ、あれっ……。ご、ごめんなさいっ! そんなに怒るなんて思わなくて……っ」
冗談が全く通じないどころか、明確な「拒絶」を突きつけられたミーナは、みるみるうちに顔を青ざめさせた。
「……いいのよ、ミーナ。気にしないで……。リュカさんも、そんなに厳しくしなくても……」
ユズリハは、今にも泣き出しそうなミーナを庇うように声を上げたが、その視線はやはり、リュカの足元にまでしか届かない。
「……。……。……すみません、ユズリハ様。少し、頭を冷やして参ります。……ミーナ、後のことは任せましたよ」
リュカは一礼すると、逃げるように部屋を辞した。カツン、カツンと、石畳に響く騎士靴の音が、遠ざかるほどにユズリハの胸を締め付けていく。
「……ユズリハ様……。私、余計なことを……っ」
「……ううん。……本当に、ただの喧嘩だったら、よかったのにね」
ユズリハは、消え入りそうな声で呟いた。鏡の中に映る自分は、白き福音の法衣を纏った「聖女」の姿。けれどその指先には、まだリュカから奪い取ってしまった、あの惨酷なまでに甘い「他者の記憶」がこびりついているような気がしてならなかった。
逃亡と毒の楔
夜の帳を無理やり引き剥がしたような、白々とした暁光が王城の石床を刺す。
リュカは、逃げるように飛び出した楪の部屋の扉を背にし、そのまま力なく崩れ落ちた。
冷たい石壁の感触が、今は公爵の脂ぎった掌よりもずっと優しく感じられる。
彼女は、激しく上下する胸を抑えるようにして、自らの肩を強く抱きしめた。

(……消えない。……まだ、そこに、いるのか。……消えてくれ、消えてくれ……!)
心臓の鼓動が耳の奥で、公爵が喉を鳴らしたあの不快な音と重なって響く。
騎士としての誇りを、令嬢という名の虚飾ごと蹂躙された一夜。
その「記録」が暁の光にさらされることを、彼は何よりも恐れていた。
着替えたばかりの、白きチュニックと濃紺のウエストコート。
城内護衛服という、本来ならば自分を『守護者』として再定義してくれるはずの装束が、今は呪いの衣に他ならない。
厚手の、しかし硬質な生地は、動くたびに首筋の『赤い跡』を執拗に擦っていく。
その摩擦が生む微かな熱さえも、昨夜の絶望を――まるで意思を裏切るように、鉛のように重く沈んで動かなかった己の身体。
その逃げ場のない沈黙に付け込み、貪るように首筋を弄んだあの男の「感触」を、今は衣服の擦れる熱が執拗に反芻させていた。
首筋に残された跡は、単なる肉体的な損傷ではなかった。
教団の不浄なパトロンである公爵が、その醜い独占欲と共に叩き込んだのは、呪いに近い「魔力の澱(おり)」である。
それはリュカの体内の魔力循環に癒着し、感覚を鋭敏に、かつ歪んだ形へと狂わせていた。
「……ああ……っ、う……」
不意に、背後から誰かに抱きしめられているような幻覚に襲われ、リュカは己の喉元を掻きむしった。
まだ、触れられている。まだ、あの汚らわしい指が這っている。
助けを求めるための僅かな指先の震えさえ、闇に溶けるようにして奪われて。ただ成す術もなく蹂躙され続けた己の『死』よりも深い屈辱が、消えぬ毒となって彼女を蝕み続けていた。
※※※
一方、彼女を追い出すように一人残された静寂の中で、楪は呆然と立ち尽くしていた。
そこへ、控えめな、しかしどこか神経を逆なでするようなノックの音が響く。
「……失礼いたします。公爵閣下との事後処理に関する『重要な記録』をお持ちいたしました」
現れたのは、見覚えのない一人の侍女だった。
「上の方から、此度の真相の共有として、聖女様に真っ先にお届けするようにと」
影のように希薄な存在感を纏った女は、書面を机に置くと、楪の返事も待たず足早に去っていった。
(……誰? 見たことがない顔だわ。昨日、新しく入った子かしら……)
動揺しきった今の楪に、その違和感の正体――彼女が忍び込んだ教団の使者であることを見抜く余裕はなかった。
残されたのは「真相」という美名に包まれた、エイス・アル・カ・ルム教団が忍ばせた毒薬。公爵の偽りの供述記録であった。
そこには、昨夜の彼女がいかにして『令嬢ルシル』という仮面を使い、公爵を甘く誘惑し、その寵愛を自ら望んだかが、吐き気を催すほど緻密な悪意で綴られていた。
(……嘘よ。……こんなこと、あの人が……リュカがするはずがないわ……)
必死に否定しようとするが、楪の脳裏には、先刻見たあの光景が鮮烈に焼き付いて離れない。
マントの隙間から覗いた、あまりに生々しく、あまりに多くの『他者の熱』を感じさせる紅い痕跡。
そして、その痕に触れた時のリュカの、あの悲痛なまでの拒絶。

「任務だったと言うのなら……なぜ、この記録には……こんな、あられもないことが綴られているの……?」
掠れた声が、無音の部屋に空しく響く。
信じたいという祈りは、手の中にある証拠という名の毒に侵され、彼女の聖女としての理性を、音を立てて粉々に砕いていく。
(……もし、あの痕が……愛の証だとしたら。……あの人は、私を騙していたというの?)
溢れ出した涙は、書面の文字を醜く滲ませていく。
昨日まで二人を繋いでいたはずの「一点の曇りもない絆」は、今やどちらに転んでも絶望しかない、最悪の『疑念』という深淵へと堕ちていった。
雨の回廊 —— 剥き出しの告白
暁の空を塗り潰すように、低く垂れ込めた雲が重い雨を降らせ始めた。
王城の外回廊、吹き抜ける風に濡れるのも構わず、彼女は冷たい石の欄干に身を預けていた。
首筋を擦る護衛服の襟元が、呪いのように熱い。公爵の「魔力の澱(おり)」は、雨の冷たさを逆撫でするように脈打ち、彼女に『まだ捕らわれている』という悍ましい幻覚を突きつけていた。
「……そこに、いたのですね」
背後から響いたのは、鈴の音を凍らせたような冷徹な声だった。
振り向いた先には、聖女の法衣を雨に濡らしたユズリハが立っていた。いつも彼女に向けていた柔らかな慈愛の光は、今のその瞳には一点の欠片も残っていない。。
ただ、全ての光彩を拒絶するように濁り沈んだ、底知れぬ深淵だけがそこにあった。
「ユズリハ……。なぜ、ここに……」
彼女は逃げるように視線を逸らし、立ち去ろうとした。だが、ユズリハの言葉が、逃げ道を塞ぐ「楔」となって突き刺さる。
「任務だったのですよね? 全ては、教団の毒を暴くための。……ならば、なぜあのような記録が残るのですか? なぜ、あなたが公爵の手を自ら引き、あのような表情を浮かべる必要があったのですか!」
ユズリハの手に握られた、偽りの記録。そこに綴られた「誘惑の令嬢」という汚名が、雨音に混じって彼女の鼓膜を蹂躙する。
信じていたものに裏切られた聖女の絶望が、冷たい殺意に近い刃となって彼女を射抜いていた。
「……っ、あれは、違う……私は……」
言い訳を探す言葉は、喉元で公爵の指の感触にせき止められる。己の身体を思い通りに動かすことすら許されなかった、あの沈黙の屈辱。装置に触れることさえ叶わず、ただ汚されるままに放置されたあの一刻を、どうして説明できようか。
「信じさせてください、リュカ……。あなたが、あんな男に、自ら身を委ねたのではないと……!」
ユズリハの悲痛な叫びが、彼女の中で張り詰めていた最後の一線を断ち切った。
「任務だからと、割り切れるものか……っ!!」

彼女は自ら襟元を、引きちぎらんばかりの勢いで剥き出しにした。
白い肌に、どす黒く、しかし鮮烈に浮かび上がる「公爵の痕跡」。雨に打たれ、魔力の澱が紫がかった光を放つその場所を、彼女は震える指先で指し示した。
「怖かったんだ……!! あのドレスの下で、指一本動かせなくなった絶望の中で、誰にも助けを呼べず、君にさえも言えない姿で、ただ耐えるしかなかった!!」
降り頻る雨が、彼女の瞳から溢れ出した涙を隠してはくれない。
騎士としての鎧を脱ぎ捨て、雨に濡れながら泣き叫ぶ彼女の姿は、もはや最強の護衛などではなく、ただ蹂躙され、傷ついた一人の女のそれであった。
「私は……私は、君が信じてくれないのが、何よりも痛いんだ……!!」
剥き出しにされたのは、首筋の傷跡だけではない。その奥に隠されていた、致命的なまでの『魂の綻び』。
彼女の慟哭は、偽りの記録という名の欺瞞(ぎまん)を、一片の疑いすら差し挟ませぬ真実の輝きで打ち砕き、唯一の記録として回廊に響き渡った。
雨音だけが、絶望に沈む二人を包み込んでいた。
剥き出しにされた彼女の首筋――そこに癒着した「公爵の澱(おり)」は、冷たい雨の中でもどす黒い光を放ち、彼女の魂を今なお侵食し続けている。
(……ああ、私はなんて愚かだったのでしょう。……この方を、一人きりでこんな地獄に残してしまったなんて)
楪の瞳に、慈愛を超えた猛烈な独占欲が宿る。自らの不信という罪悪感を焼き払うかのように、彼女は震える彼女を、壊れ物を扱うような手つきで、しかし逃げ場を奪うほど強く抱きしめた。
「……ユズリハ……?」
困惑に揺れる彼女の耳元に、楪は聖女としての仮面を脱ぎ捨てた、湿り気を帯びた声を忍ばせる。
「消しますね。……あの男が残した不浄も、私の不信も。……あなたの肌に触れた毒の全てを、私が一点の曇りもない光で書き換えて差し上げます」
楪はそっと顔を寄せ、雨に濡れた彼女の首筋――あの忌まわしい紅い痕跡に、静かに、しかし深く唇を重ねた。
「……っ!? ……は、っ、……ユズリハ……っ!!」
熱い。
雨に打たれ凍えていたはずの肌に、火傷のような熱が走る。それは治療を超えた、魂への直接的な侵入。楪の体内から溢れ出した琥珀色の魔力が、公爵の残したどす黒い「澱」を一つ残らず噛み砕き、純白の光で焼き潰していく。

「く、……あ、あ……あぁ……っ!!」
彼女は楪の肩に指を食い込ませ、のけ反るようにしてその「上書き」を受け入れた。公爵の脂ぎった感触が、楪の清廉な、けれど底知れぬ執着を秘めた熱によって、強引に、甘美に塗り替えられていく。
それは救済であると同時に、彼女が一生、この聖女の光から逃れられなくなることを意味する「契約の儀式」でもあった。
やがて楪が唇を離すと、そこには公爵の痕跡など影も形も残っていなかった。
元の白さを取り戻した彼女の肌。だが、そこには聖女の魔力という『目に見えない、より深い徴(しるし)』が刻まれ、二人の魔力循環を分かち難く繋ぎ止めている。
「もう、大丈夫です。……あなたは私だけの、一点の曇りもない騎士。……そうでしょう?」
雨に濡れた楪の微笑みは、聖女のそれとはどこか違う、深い深淵のような色を湛えていた。
光の中の濁り —— 欺瞞の夜明け
激しい雨は、いつの間にか細かな霧雨へと変わっていた。
回廊の隅、楪の胸の中に額を預けたまま、彼女は荒い呼吸を整えていた。
首筋に残る、火傷のような熱。公爵の残した汚泥は消え失せたが、代わりに楪の放った琥珀色の魔力が、血管の奥まで「私のものだ」と主張するように脈打っている。

(……もう、戻れない。……私は、この方の『光』に、永遠に囚われてしまった)
遠くから、朝の訓練を告げる鐘の音が、冷たく、容赦なく響き渡る。
その音に弾かれたように、彼女は強張った身体で自分を抱きしめる腕から逃れようとした。だが、楪の手がそれを優しく、しかし抗えぬ力で制止する。
「待って、リュカ。……そんなに急いでは、綻びが見えてしまいますわ」
楪の声は、驚くほど穏やかだった。先刻までの慟哭が嘘のように、彼女は完璧な「聖女」の微笑みを浮かべ、はだけたリュカの護衛服に手を伸ばす。
雨に濡れて肌に張り付いた白きさらしを、慈しむように整え、シャツの襟を立てる。そして、一つ、また一つと、銀のボタンを丁寧に留めていく。
それは、聖女が騎士に施す「偽りの装甲」であった。
「私が、あなたを元に戻して差し上げます。……昨夜のことなど、誰も知る必要はないのですから」
最後の一つを留め終え、楪はリュカの首筋――先ほど自分が唇を寄せた場所に指先を滑らせ、満足げに目を細めた。
そこに刻まれたのは、救済という名の、消えることのない独占の徴(しるし)だった。
(……これが、私の望んだ結末なの……?)
鏡のように静まり返った楪の瞳の中に、自分を押し殺して「完璧な騎士」の顔を作っていく己の姿が映る。
二人は、降り注ぐ朝陽の中へ、寄り添うようにして歩み出した。
その様子を、王城の尖塔の影から見下ろす一対の瞳があった。
「ふふ……。最高の結果だわ。あんなまわりくどい真似をした甲斐があったというものよ」
ニルヴァは冷たい石柱に背を預け、細めた瞳で愉悦を噛みしめるように、自らの唇を指先でなぞった。

彼女が仕掛けた「公爵の暴挙」と「偽りの記録」。
その真の狙いは、リュカを壊すことなどではない。リュカという弱点を守るために、聖女楪が自らの魂を『執着』という闇に染めること――。
「さあ、次はどの『嘘』を暴いてあげましょうか? リュカ……いいえ、『ルシル』?」
公爵との一夜で使われた偽名(ルシル)を、甘く、毒々しくなぞるように呟き、ニルヴァの姿は朝の光に溶けるように消えた。
第11話:残光の雪解け(完)