PR 純真の落日

聖女の詩、白の余白 ー 第9話:白の檻、銀の枷

凍月 楪

不吉なほどに重厚な揺れが止まり、黒塗りの檻馬車は死んだような静寂に包まれた。
窓一つない密室のなか、停滞した空気には、使い古された革の匂いと、数日間もまともな洗浄を許されなかった少女たちの体温、そして逃げ場のない恐怖に曝され続けた末の熱っぽい呼気が混じり合っている。
「……っ」
暗がりのなかで、フィオナが短く、震える吐息を漏らした。
後ろ手に回され、冷徹な銀の枷で固定された彼女の手首は、絶望の重圧に耐えかねるように細かく脈打っている。楪(ゆずりは)は自らの手首に食い込む枷の感触を、奥歯を噛み締めて受け止めた。皮膚と金属の間に遊びはなく、少しでも身じろぎすれば冷たいエッジが肉を噛む。

その不自由さこそが、今の自分たちの立場を何よりも雄弁に物語っていた。
逃れられぬ終焉を告げるように、外部から重々しい閂(かんぬき)が外される鈍い音が響き渡る。

ギィィィィィィ――。
油の切れた蝶番が悲鳴を上げ、鉄板で補強された扉が無慈悲に開け放たれた。
一瞬、視界が白一色に塗り潰される。差し込んできたのは、旅のなかで浴びた柔らかな陽光などではない。網膜を暴力的に刺し貫くような、魔力的に精製された無機質な白光だった。
眩暈に眩む視界の先、白光を背負って立つ影は、血の通わぬ彫像のように静止している。

「降りろ。聖なる時間は、一秒たりとも待ってはくれない」
逆光のなかに立つ影から、感情を削ぎ落とした声が降ってきた。
馬車の外に居並んでいたのは、汚れ一つない純白の法衣を纏った執行官たちだ。その顔はフードの陰に隠れ、唯一露出した口元も厳格に結ばれている。彼らが一歩踏み出すたびに、鏡面のように磨き上げられた石床に、鉄底の聖沓(てってい の せいとう)が「カツン、カツン」と、乾いた、それでいて心臓を直接握り潰すような音を響かせた。それは信仰という名の暴力が歩む音だった。

「……っ、う、あ……っ」
眩光にたじろぐフィオナの細い脇を、執行官の白手袋が容赦なく掴んだ。乱暴に馬車の下へと引きずり出した彼女は、石床の冷たさに喘ぎながら膝を突く。
続いて外へ連れ出された楪の目に飛び込んできたのは、視界のすべてを白大理石と白磁で塗り固めた、異常なほどに広大な回廊だった。塵一つ、埃一つ許さない白の空間。天上の高さからは冷ややかな光が降り注ぎ、逃亡の余地など微塵もないことを誇示している。泥と砂塵に汚れ、後ろ手に繋がれたまま跪かされた自分たちは、神聖なキャンバスにこびりついた不浄な「染み」そのものだった。

「ここからは別々だ。汚濁は、等しく清められねばならない」
背後で懐中時計の蓋を閉じる音が響く。ラザスの冷徹な眼光が、囚われた一行を値踏みするように撫でた。その視線には憎しみすらなく、ただ壊れた道具を検品するかのような淡白さがあった。
ラザスが短く顎で示すと、執行官たちが無言で動き出した。重傷を負い、意識を混濁させているリュカは、抗う術もなく両脇を抱えられ、血の跡を白い床に引きずりながら別の回廊へと連行されていく。

「リュカ様! ……やめて、離してっ!」
楪が鋭い叫びを上げ、後ろ手に縛られたまま、連行されていく守護騎士の背中へと身体を投げ出そうとした。泥に汚れた旅装が翻り、彼女の切実な指先が空を掻く。
その刹那、彼女の両手首を締め上げる銀の枷が、不気味な青白い燐光を放った。
キィィィン、という鼓膜を裂くような高周波の共鳴音。脳内を直接掻き回すような激痛が走り、楪の表情は苦悶に歪んだ。全身の筋肉が強制的に硬縮し、身体は糸が切れた人形のように硬い石床へ叩きつけられた。

「ひっ……あ、あ……!」
無惨に崩れ落ちた楪を見て、フィオナが悲鳴を上げ、這い寄ろうとする。だが、一歩も進まぬうちに彼女の枷もまた冷たく鳴り響き、その華奢な肉体を物理的に凍りつかせた。
「……貴方たちのしていることは、ただの卑劣な暴力です。これ以上の狼藉、私が許しません」
アンナが憎悪に満ちた声を上げるが、執行官たちの鉄底が彼女の前に立ちはだかり、無言の圧力を加える。
ミーナはただ、壊れていく少女たちの姿を涙に濡れた瞳で見つめ、ガタガタと震えることしかできなかった。

「無駄だ。その枷は、分不相応な『感情の昂ぶり』を聖別する。貴様たちが人間としての尊厳を主張しようとするたび、それは苦痛となって返ってくる」
ラザスは乱れた空気を厭うように、冷たい視線を二人の少女へと戻した。
「聖女、そして王女。貴様たちには、最も純粋な『白』の部屋を用意してある。そこで、自らの不浄を数えるがいい。一秒ごとに、一つずつな」

連行される騎士の、絶望的な呻きと力ない足音。そして、それに続く従者たちの咽び泣き。それらすべてを塗り潰すように、執行官たちの鉄底の聖沓の音が回廊に反響し、遠ざかっていく。
引きずられるようにして運ばれた先には、窓のない、滑らかな白磁の壁に囲まれた一室があった。装飾を排したその空間には寝台があるだけだ。
「入れ」
背中を押され、二人は冷たい部屋のなかへと放り出された。重厚な扉が閉まり、再び閂が下りる。ガチャン、という絶望的な金属音が、彼女たちの最後の自由が完全に剥奪されたことを宣告した。

「触れることすら、許されないの……?」
静まり返った『白の檻』のなか、フィオナが震える声で呟いた。
彼女は床に座り込み、後ろ手に繋がれた自らの枷を見つめている。楪は痛む身体を引きずり、彼女のそばに寄ろうとした。しかし、二人の距離が近づき、肌の温もりを感じられるほどに接近した瞬間、枷は再び『警告』の微光を放ち、肉体に刺すような痺れを走らせる。
慈しみも、慰めも、共有することも許されない。ただ白一色の無機質な空間で、銀の枷に縛られたまま、互いの崩壊を眺めることだけを強要される。それが『聖別』という名の地獄の幕開けだった。

聖別の虚白

「白の檻」の内部を支配しているのは、影さえも居場所を失うほどに徹底された光と、耳の奥を圧迫するような不自然な静寂だった。
窓のない壁面は、繋ぎ目さえも見えないほど滑らかな白磁で構成され、天上の高みからは魔力灯が影を許さぬ冷徹な白光を注ぎ続けている。
外の世界にあるはずの風の音も、土の匂いも、この無菌の空間には届かない。

楪(ゆずりは)が呼吸を繰り返すたび、乾いた空気が肺の粘膜を削るような微かな摩擦音が響き、それが部屋の四隅で増幅されて彼女自身の鼓膜を追い詰めていく。
腰の後ろできつく繋がれた銀の枷が、石床に横たわる彼女の背中に冷たく食い込み、拍動に合わせてじりじりと肉を噛んでいた。

――ガチャン!
重厚な閂(かんぬき)が跳ね上がる鋭い衝撃が、静寂を暴力的に引き裂いた。

「ひっ……!」
フィオナが短い悲鳴を上げ、弾かれたように身体を強張らせた。
楪もまた、喉の奥で息を呑み、本能的に扉から距離を取ろうと石床を蹴った。
ジャラッ、ギチィッ……!
後ろ手に固定された枷が床を擦り、逃げ場のない焦燥を耳障りな金属音に変える。
二人は無様に床を這い、互いの温もりを求めて部屋の隅へと後ずさった。
だが、その肩が触れ合おうとした刹那、銀の枷が鋭い青白光を放ち、刺すような魔力のパルスが二人の肉体を打った。

「う、あ……っ」
「……あぅっ……!」
触れ合うことさえ許されない。
二人は痛みに顔を歪め、数センチの絶望的な距離を保ったまま、壁際で震えることしかできなかった。
どれだけ退こうとも白磁の壁が立ちはだかり、冷徹な光が彼女たちの無防備な姿を暴き出している。

音もなく扉が開かれ、そこへ入ってきたのは顔を隠した三人の執行官だった。
彼らが一歩踏み出すたびに、鏡面のように磨き上げられた石床に、鉄底の聖沓(てってい の せいとう)が放つ硬質な金属音が刻まれる。
カツン、カツン、カツン。
その足音が近づくたび、楪は剥き出しの肌を刺されるような戦慄に身を震わせた。
執行官たちは無言のまま、獲物を検品するような冷徹さで、隅に追い詰められた二人を取り囲んだ。

「……不浄である。その汚泥に塗れた布ごと、削ぎ落とさねばならん」
執行官のひとりが、感情を削ぎ落とした掠れた声を漏らした。
次の瞬間、彼らは有無を言わさぬ暴力的な手つきで、ユズリハの肩を掴み、床へと押しつけた。

「なっ……何をするの!? やめて、離してっ!」
楪が叫び、必死に身を捩る。
だが、両手首を腰の後ろで完全に固定された彼女にとって、その抵抗は虚しく床を打つだけの無力な足掻きに過ぎなかった。
執行官の無機質な白手袋が、彼女の旅装の襟元に指をかけ、容赦なく力を込める。

――バリッ、ビリリッ!
「……っ、あ……ぁっ!」
繊維が悲鳴を上げて引き裂かれる音が、静まり返った部屋に無慈悲に反響した。
旅路を支え続けた衣服が、不浄なゴミとして乱暴に剥ぎ取られていく。
守るべき拠り所を奪われ、剥き出しにされた肌に直接、刺すような冷気が這い回った。
羞恥心で全身の血が逆流するほどに顔が熱くなるが、それを隠すための腕は背後で無情に吊り上げられ、自由を奪われている。

「嫌っ……! 見ないで……お願い、やめて……っ!」
隣ではフィオナが、泣き叫びながら床を這っていた。
王女として大切に守られてきたはずの彼女の尊厳が、執行官たちの冷徹な観察眼の下に蹂躙されていく。執行官たちに情欲の色はない。だからこそ、彼女たちは自分たちがただの『汚れた物質』として扱われている事実に、吐き気を催すほどの絶望を覚えた。

銀の枷が、暴れる二人の手首を締め上げ、不自然な角度で腕を吊り上げる。
ギチ、ギチ……。
「う、あ……、あ……」
機構が噛み合うたびに冷たいエッジが肉へと食い込み、抗う意志を強制的に削いでいく。
完全に衣服を奪われ、影のない白光の下に晒された二人の少女。
楪は震える身体を丸め、せめてその冷淡な視線から逃れようと顔を伏せたが、光が満ちたこの部屋に逃げ場などどこにもなかった。

そこに、新たな布地が投げ与えられる。あまりにも薄く、滑らかな質感を持つ「聖別の白衣」だ。

「……っ、こんな、もの……っ」
執行官たちの手によって、半ば強引に身に纏わされたそれは、あまりにも残酷な設計だった。
上半身を覆うのは、袖も肩紐もない、極限まで切り詰められた一片の胸帯(きょうたい)だ。
前面の中央には深い切れ込みがあり、その左右を繋ぎ止めているのは、胸元で結ばれた一本の、細く繊細な紅いリボンだけだった。

執行官の無機質な指先が結節を冷酷に絞り上げ、胸元に鮮血の如き紅いリボンを、断罪の証として固定する。
切りっぱなしの裾はアンダーバストの曲線さえも隠し切れず、少しでも呼吸を乱せばその危うい均衡が崩れ去る。
腰に巻き付けられただけの断片的な腰衣(ようい)も、固定具はおろか紐さえない不安定な構造で、後ろ手に繋がれたままでは自ら整えることすら叶わない。
斜めに重ね合わされただけのその布地は、少しの身じろぎで容易にその役目を放棄し、彼女たちの尊厳を白日の下に晒そうとする。

「不浄を脱ぎ捨て、聖なる白を纏え。これこそが器としての初歩である」
白一色の世界で、少女たちの胸元に刻まれたリボンだけが、不気味に浮き上がっている。
執行官たちは汚れた以前の衣服を回収すると、再び鉄底の聖沓を響かせて去っていった。
扉が閉まり、再び「ガチャン」と閂が下りる。密室に残された二人の少女は、慣れない白衣の心細さと、奪われた尊厳の喪失感に打ち震えていた。

「……ユズリハ……、怖いよ……怖い……」
フィオナが涙で声を詰まらせ、床を這って寄り添おうとする。その拍子に腰衣の合わせ目が乱れ、彼女はさらに羞恥に身を竦ませた。
ユズリハもまた、痛む身体を引きずり、彼女の肩を抱こうとした。だが、その肩が触れ合おうとしたその瞬間――。

――キィィィィィィィン!!
脳の髄を直接針で抉るような、鋭利な魔力の共鳴音が部屋を満たした。

激痛ですらなかった。ただ、あまりに過剰な魔力の奔流が神経を蹂躙し、思考そのものが真っ白なノイズで塗り潰されたのだ。
「あ、あぁ……、あ……」
声にならない喘ぎが、石床の冷たさに吸い込まれていく。全身の筋肉が意思に反して硬縮し、彼女の身体は無様に床へとのめった。後ろ手に縛られた枷が、抵抗を許さぬ重圧となって彼女を石床へと縫い付ける。フィオナもまた、床に転がり、全身を不自然に硬直させていた。

カツン、カツン、カツン。
規則正しい歩法が、静寂を侵食し始めた。扉が再び開き、執行者ラザスが姿を現した。
彼は中央の椅子に腰を下ろし、懐中時計を開いた。
カチ、カチ、カチ……。
機械的な秒針が刻む一定の周期だけが、この部屋の沈黙を死の宣告のように刻み続けている。

「聖女、そして王女。不浄な皮を脱ぎ捨て、少しは身軽になったか」
ラザスは、感情の欠片もない瞳で床に転がる二人を見下ろした。
「貴様たちの旅路は、ここで完全に終わった。もはや騎士という盾も、従者という手足もいない。名前さえも、この部屋では意味を持たぬノイズだ。ここではただ、聖なる器としての平穏だけが許される」
「……そんなの、絶対に認めない……っ」
意識を混濁させながらも、ユズリハは床に顔を押し付けたまま、ラザスを睨みつけた。
乱れた白衣の隙間から、冷たい虚無が彼女の肌を容赦なく撫でる。

「……こんな、はしたない格好にさせて……っ! こんな、気味の悪い部屋に閉じ込めて……! 私たちの誇りまで、あんたたちの思い通りに……奪えると思わないで……っ!」
床に這いつくばったまま、楪(ゆずりは)は屈辱に震える声で吠えた。薄い胸帯(きょうたい)から覗く肩が激しく波打ち、後ろ手で吊り上げられた手首の枷が、彼女の怒りに呼応するように不気味な光を放つ。

「ならば、その『我(エゴ)』がいつまでこの白さに耐えられるか、じっくりと観察させてもらおう」
ラザスは、手元にある黒い端末を、興味なさげに一瞥した。その冷徹な視線が再び楪を捉えた瞬間、彼女の背筋に、得体の知れない悪寒が奔る。

「君が抱くその『誇り』の熱量に応じて、彼女の枷は魔力を増幅させる設定に切り替えた。……君が私を睨みつけ、抵抗の意志を滾らせれば滾らせるほど、彼女の神経は焼かれることになる」
宣告と同時に、楪の怒りに呼応して、フィオナの手首の枷が、眩い白光を放ち始めた。

――キィィィィィィィン!!

激痛ですらなかった。ただ、過剰な魔力の奔流がフィオナの神経を蹂躙し、彼女の細い肢体を、意思に反して不自然に硬直させた。喉を掻き切るような悲鳴が、部屋の静寂を無惨に引き裂く。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

静寂の漂白 ―― 溶解する時間

ー漂白された聖域ー

 

ゴォォン……ッ、という、胃の腑を直接揺さぶるような重苦しい金属音が、冷え切った聖別所に響き渡った。
重厚な鉄の扉が、外側から冷徹に閉ざされた証だ。

その瞬間、世界から一切の色彩が剥ぎ取られた。影を許さぬほどに白く、臨床的な冷徹さを湛えた天井の魔導灯が、大理石の床に伏した二人の肢体を無機質に照らし出す。
磨き上げられた床は、まるで磨かれた氷のように滑らかで、かつて彼女たちを護っていた矜持――楪が纏っていた「薄氷の聖衣」や、フィオナがずっと着慣れていた旅の服は、一片の布切れさえ残さず略奪し去られていた。

何一つ遮るもののない白磁の平原は、ただただ寒々しく、彼女たちが何もかもを奪われ、文字通り剥き出しにされたという事実を、逃げ場のない鮮烈さで際立たせている。
空気は、先ほどまでの不浄な儀式によって熱を帯び、喉の奥を刺すような錆びた鉄に似た魔力の匂いと、拭い去れない辱めの余韻が、白濁した静寂の中に不気味に滞留していた。

「……は、ぁ……っ、……あ……、……っ……」
隣で、途切れ途切れの、震える呼吸が聞こえる。フィオナだった。
かつての凛とした彼女の面影は、いまや純白の胸帯と腰衣という、尊厳を剥き出しにするための布切れに覆われただけの「無力な器」へと成り果てている。

彼女の背中では、新たに装着された青銀の枷が、銀色の肌に食い込むようにして鈍い光を放ち、両手首を不自然なほど高い位置で、後ろ手へと固定していた。
肩の関節が限界まで引き絞られ、剥き出しの背中が痛々しく反り返るその姿勢は、彼女の意志を少しずつ削り取っていくための呪いそのものだ。

楪は、頬を冷たい床に押し当てたまま、その光景を視界の端に捉えていた。
彼女もまた、同じ枷に自由を奪われ、屈辱の重圧に押し潰されていた。銀色の長い髪が、大理石の冷たさに吸い付くように床へ散らばり、剥ぎ取られたばかりの身体を痛ましく包んでいる。

「……ユ、……ズリ、ハ……」
フィオナが、ゆっくりと顔を上げた。
その頬は、今さっき衣服を剥ぎ取られたばかりの激しい羞恥によって、熱病のように赤く染まっている。
乱れた金髪が、汗と涙で陶器のような白い肌に張り付いていた。

震える唇。そこからは、極度の緊張と精神的ショックによって制御を失いつつある証拠に、一筋の湿り気が、銀の糸のように引いて床へと滴り落ちている。
それでも――フィオナは、その濁りかけた翡翠の瞳に、必死で「勇気」という名の灯火を宿そうとしていた。

「だいじょうぶ……だよ。私、は……まだ、負けて、ないから……。だから、あなたも……っ、負け、ないで……っ」

無理に作った、今にも壊れそうな微笑み。
それは、この絶望的な状況下で、親友である楪を繋ぎ止めようとした、彼女の精一杯の、そして「最初」の励ましだった。

「フィオナ……」
楪は、乾いた唇からその名を零した。彼女の瞳には、まだ親友を守ろうとする聖女としての光が、確かに残っていた。
「……わかってる。私も、あいつらに屈したりしないよ。こんな辱めで、教団の思い通りになんて絶対ならないから。……約束だよ、二人でここから脱出するんだ」

二人の意志が、視線を通じて交錯する。互いの無事を確かめ合い、絆を確認しようとする温かな感情の交流。
だが、その「意志」こそが、この漂白された檻においては凄惨な制裁を招く呼び水であった。

キィィィィィィィィィィィィン!!

突如、鼓膜を刺し貫くような高周波の駆動音が、静寂を切り裂いて響き渡った。
青銀の枷が、不気味な脈動を始め、冷徹な青白い光を放ち、枷に埋め込まれた魔導センサーが、二人の間に通った不純な感情を余さず検知し、強制的な制裁を開始したのだ。

「あ……、あガッ、……ぁぁああああああかっ!!」

フィオナの体が、巨大な電流に打たれたかのように大きく跳ね上がり、弓なりにしなった。
拘束された両腕が青銀の枷によって物理的に上方へと引き上げられ、関節が軋む悲鳴を上げる。
魔力の過負荷が彼女の繊細な神経系を暴走させ、意識は一瞬で白濁した絶望の深淵へと叩き落とされた。

「フィオナ! フィオナッ!!」
楪が叫ぶ。だが、彼女が親友の名前を呼び、助けようともがけばもがくほど、枷の共鳴はさらにその輝きを増していく。
フィオナの焦点の合わない瞳は、白光を反射して天井へと裏返り、口元からは制御を失った呼吸と共に、大量の涎が零れ落ちた。

ビチビチと、大理石の上で跳ねる彼女の肢体。その激しい痙攣が、ある一点で不自然なほどに跳ね上がった、その直後だった。
「あ……、あガッ、……ひ、うぅう……ッ!!」
フィオナの喉から、空気の漏れるような、それでいて必死に何かを堪えようとする、無惨な悲鳴が漏れ出す。

――ジョボ、ボボボボッ、……ッ!!

「……っ、うそ、……やめて、フィオナ……っ、……やだ……ッ!!」
耳を疑うような、あまりに場違いで、あまりに無惨な決壊の音に、楪が絶叫する。
極限の恐怖と、神経を焼くような魔力のパルスによって、肉体の堰(せき)が完全に破壊された結果――彼女は、耐えきれずにその場を「汚して」しまったのだ。

熱を帯びた透明な液体が、冷たい大理石の上で無機質な水溜りを作り、天井の白光をキラキラと反射し始める。

「やめて……お願い、もうやめてよ!! フィオナ……フィオナが、フィオナが壊れちゃう、おかしくなっちゃうよ……っ、お願い……っ!!」
楪の悲痛な叫びは、誰にも届かない。ただ、自分を励まそうとしてくれたその少女が、よだれを垂らし、自らの足元を汚して痙攣する無惨な姿を、瞬きさえ許されない至近距離で見守ることしかできない。

フィオナの喉からは、もはや言葉にならない獣のような喘ぎが漏れ出し、やがて――カクン、と、糸の切れた人形のように、彼女の首が力なく横たわった。

静寂が戻る。ただ、彼女の腕から放たれる青い光だけが、その「死」にも似た虚脱を冷たく照らしていた。
直後、フィオナの全身を、眼を焼くような純白の閃光が包み込んだ。

理不尽なまでの、強制的な初期化。

激しく打ち鳴らされていた命の鼓動が、一瞬で不自然なほどに凪いでいく。羞恥に火照っていた肌は白磁の冷たさを取り戻し、喘いでいた呼吸は糸を引くように静まり……。絶望に焼き切られたはずの意識の断片は、冷酷な摂理によって、蹂躙が始まる直前の「無垢な静寂」へと強制的に引き戻されていく。

「……ぁ……、……ユズ、リハ……」

光が収まった直後、フィオナは再びゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、先ほどまで張り裂けんばかりに響いていた絶叫の残響も、自分を案じてくれた楪の言葉も、微塵も残ってはいない。
彼女の魂にあるのは、たった今、服を奪われ、枷を嵌められた瞬間の、生々しく鮮烈な恐怖だけだ。

「だいじょうぶ……だよ。私、は……まだ、負けて、ないから。だから……あなたも、負け、ないで……っ」

完璧な再演。一寸の狂いもない、二度目の「最初」の励まし。
それを聞いた瞬間、楪の背筋を、大理石の冷たさ以上の、得体の知れない悪寒が走り抜けた。

(……え? いま、フィオナ、なんて……?)
自分の記憶が裏切られたのかと、楪は震える。だが、床に広がる水溜りは、確かにそこにあり、自分たちの「絶望の一周目」が完了したことを、無言で告げていた。

 

ー摩耗する鼓動、反復する慈愛ー

 

「……ぁ……、……ユズ、リハ……」

その声が響くたび、楪の心臓は、薄氷を素手で握りつぶしたような痛みに震えた。
何度目だろう。数えることを、脳が拒否し始めている。
視界の端で、リセットされたはずのフィオナが、再び「初めて」の勇気を振り絞って顔を上げる。

「だいじょうぶ……だよ。私、は……まだ、負けて、ないから。だから……あなたも、負け、ないで……っ」

(……やめて。もう、その言葉は聞きたくない)

楪は、大理石に吸い付いた深紫黒色の髪を震わせた。
フィオナの瞳にあるのは、濁りのない親愛。だが、その光さえも、今の楪には網膜を焼く毒でしかなかった。
繰り返される言葉、繰り返される励まし。それが、この部屋に響くたびに、二人の間にあったはずの絆が、ただの「制裁の合図」へと成り下がっていく。

ふと視線を落とせば、白磁の床には透明な湖が広がっていた。
フィオナが、その小さな身体が耐えきれずにこぼし続けた、無惨な失態の積み重ね。

(……一回、二回、三回……。違う、もっとだ。……何日経ったの? 私たちは、いつからここにいるの……?)

時間の境界線が、足元の水溜りに溶けて消えていく。
フィオナの名前を呼ぼうとしても、喉がその形を思い出せない。
彼女を助けたいという意志は、幾千回もの「リセット」の光によって、少しずつ、けれど確実に漂白されていた。

キィィィィィィィィィィィィン!!

まただ。駆動音が、意識を現実へと引き戻す。
隣で、フィオナの肢体が激しく跳ね上がる。

――ジョボ、ボボボボッ、……ッ!!

耳を塞ぎたくなるような、あの無惨な決壊の音。それさえも、もはや楪の心には波紋を立てない。
絶望することに疲れ、怒ることに飽き、ただただ、この真っ白な世界が自分を呑み込んでくれるのを待つだけの、空っぽな「器」へと近づいていく。

(……いいよ。もう、全部忘れていいんだよね。フィオナのことも、自分のことも……)

聖女としての矜持も、現代から持ってきたはずの記憶も、すべてが「白」へと塗り潰されようとしていた――。

 

ー獣の囁き、偽りの夜明けー

 

……どろりと、意識が「白」に溶けていく。

※※※

重く、冷え切った石壁。その一角に、リュカはいた。
身体に、傷はない。幾度も裂かれたはずの傷跡も、流れたはずの血も、今はもう跡形もない。
ただ、陶器のように滑らかな、不気味なほどに白い肌がそこにあるだけだった。

「……ユズリハ様……、フィオナ様……」

渇いた唇が、二人の名を紡ぐ。彼らが捕らえられてから、どれほどの時間が過ぎたのか。
この地下深く、光さえ届かない檻(おり)の中では、上層で何が起きているのかを窺い知る術は何一つない。重苦しい沈黙だけが、リュカの心をじわじわと削り続けていた。

その時、牢のすぐ近くで足音が止まった。

「……ふむ。やはり、あの程度では面白くないな。期待外れだ」

ラザスの声だ。リュカは息を殺し、扉に耳を押し当てた。

「執行官。私はこれから、教団本部の定例会議へと出かける。しばらくはこの施設を離れるが……戻った時に、またあの二人の新鮮な悲鳴が聞けないようでは興醒めだ」

(会議……? ラザスが、ここを離れるのか……っ!?)
リュカは扉の隙間へ耳を押し当て、心臓の鼓動を抑えつける。
絶望的な状況の中、初めて差し込んだ一筋の「綻び」に、視界が熱くなるのを感じた。

「はっ。しかし、上層の『聖別室』にいる二人は、すでに精神の臨界点に達しており……」
「構わん。術式を最大出力に上げ、肉体も精神も『搬送直後の状態』へ、完全に元通りに戻しておけ。……ああ、それから」

(元通りに……? 何を言っている。……まさか、ユズリハ様たちを、まるで壊れた道具か何かのように……ッ!)
リュカは奥歯を噛み締めた。意味は完全に理解できなくとも、主たちの尊厳をモノのように『元通り』にするという言葉の響きに、胃の底が焼けるような怒りがこみ上げる。

ラザスの冷徹な笑みが、声越しに伝わってくる。

「あの一緒に捕らえた二人の侍女はどうした?」
「はっ。そちらも幾度かの『魔導伝導試験』を終え、現在は意識を喪失しております。先ほど元の状態へ戻し、この通路の突き当たりにある『雑居房』へ放り込んでおきました」

(ミーナさん、アンナさんも……ッ。近くに、無事なんだな……!)
ラザスの口から語られる『試験』という名の非道。
だが、リュカは絶望よりも先に、彼女たちがまだ「存在している」という事実に縋った。

「ふむ。あの程度の素材では一度の負荷で壊れると思ったが、意外と保(も)ったものだな。……いいだろう、今はそこで待たせておけ。会議から戻った後、どちらがより『使い道』があるか、改めて選別してやる」

嘲笑と共に、ラザスの足音が遠ざかっていく。残された気配は、独房の前を監視する執行官のものだけだ。

(奴が離れる空白……。仕掛けるなら、奴が戻る前の、今しかない……ッ!)
リュカは足枷の鎖を緩め、音を立てないようゆっくりと腰を浮かせた。
その瞳は、獲物を狙う獣のように、扉の向こうにいる「鍵を持った男」を鋭く見据えていた。

「待っててください、ユズリハ様、フィオナ様……。今、助けに……ッ!!」

断罪と、奪われた時間

地下独房の底に漂う空気は、腐った泥のように重く、そして凍てつくように冷たい。石壁の隙間から染み出す湿り気が、肌を刺すような悪寒となってリュカの神経を苛んでいた。
(……意識が、白い。……そうだ、私は、捕らえられて。……あの男に、鎧を剥がされて……ッ!)

脳裏を焼くのは、数分前のことのように鮮明な、あの絶望的な瞬間だ。
騎士としての矜持を無惨に踏みにじられ、男として生きてきた己が、実はか細い肢体を持つ女であったという正体を暴かれた屈辱。
絶望の中で意識を失い、目覚めればこの冷たい床の上。彼女は、まだ事態が動き出したばかりなのだと信じ、震える指先を床の砂利に食い込ませていた。

「……おい、交代の時間だ。いつまでその検体を眺めてやがる」
独房の重厚な鉄扉の向こう側から、低く、退屈そうな男の声が響いた。リュカは反射的に呼吸を殺し、薄暗い影の中へと身を沈める。

「へへっ、いいじゃねえか。主(あるじ)は教団本部の会議でお出ましだ。戻るまでにはまだ時間がある……。なぁ、この騎士サマの正体、まさかあんな上等な『女』だったなんてなぁ。せっかく主が『元通り』に漂白してくれたんだ。少しばかり中身を改めてやっても、バレやしねえよ」
続いて聞こえてきたのは、粘りつくような脂ぎった声だった。肥満体の執行官が、下卑た笑いと共に相棒に語りかけている。

「……馬鹿な真似はやめておけ。今は主がいないんだぞ。あの御方の『懐中時計』による増幅がなけりゃ、俺たちだけじゃ魔導回路の出力を維持できん。今こいつを壊しちまったら、二度と『漂白』は効かないんだぞ。どれほど汚しても傷一つなく、真っさらな状態へ洗い流せるのは、あくまで主の時計があってこそだ」

「ちっ、分かってるよ。あの時計さえありゃあ、どんなに手荒に扱ったって、何もなかったような綺麗な状態にまで巻き戻せるってのによ……。……分かったよ、お前は先に上がってろ。俺はこいつの状態を記録してから行く」
「……ほどほどにしろよ。主の素材を台無しにしてみろ、その時は知らんぞ」

重い足音が遠ざかっていく。残されたのは、扉の向こうで下卑た鼻息を漏らす男一人だけだ。
(懐中時計……巻き戻し……漂白……? 何を言っている。だが、あの男がいない今なら、奴らの魔力も底を突いているということか……ッ!)

カチリ、と鍵が回る音がし、扉が低い呻きを上げて開いた。
通路の光を背負って踏み込んできた肥満体の執行官は、手枷もなく、ただ足枷に繋がれただけの「獲物」を見下し、その下卑た視線をリュカの、鎧を失い薄衣一枚となった身体に這わせた。
「さて……。主への報告のために、隅々まで『検品』してやるとしよう。捕らえた時よりも、さらに瑞々しくなったその身体をな……」

男が脂ぎった手を伸ばし、リュカの髪を強引に掴もうとした、その刹那――。

ガシャッ、と、短い鉄の衝突音が響いた。
死体のように動かなかったリュカが、爆発的な勢いで跳ね上がる。
驚愕に目を見開く執行官の視界で、太い鉄の鎖が、月明かりを弾く銀蛇のように踊った。リュカは足首を繋ぐ枷の鎖を、あえて弛ませた状態で手に巻き付け、即席の打撃武器へと変えていたのだ。

ガチッ、という硬質な打撃音が、男の顎を正確に砕く。
衝撃で跳ね上がった男の首に、リュカは間髪入れず、残りの鎖を幾重にも巻き付けた。渾身の力を込め、己の体重のすべてを預けて鎖を引き絞る。
「が……はっ、ごふっ……ッ!!」

執行官の手足が、断末魔の痙攣を起こして空を掻く。鎖が男の喉に食い込み、不気味な軋みを立てる。
リュカの瞳には、かつて見たことのないほど鋭く、獣のような殺意が宿っていた。正体を暴かれた恐怖と、仲間を想う執念。それが、女としての震えをかなぐり捨てた、最強の狂戦士へと彼女を変貌させていた。

やがて、執行官の身体から力が抜け、独房の床に沈黙が戻る。リュカは冷酷にその首を放り出し、男の腰から鍵の束を奪い取った。
「……はぁ、はぁ……ッ! 待っていてください……今、今助けに……!」

通路へ踏み出す直前、リュカは床に転がった執行官の死体へと視線を落とした。
脂ぎった醜悪な巨体を包んでいた、分厚い革の外套。本来なら触れることすら忌まわしい代物だが、今の彼女にとって、それは己の『正体』を隠すための唯一の盾だった。
彼女の身体を覆っているのは、薄く、身体のラインを無慈避に浮き彫りにさせる『器の衣』。これを隠さなければ、仲間たちの前で騎士であり続けることは叶わない。

「……くっ」
リュカは嫌悪感を喉の奥へ押し込み、死体から外套を剥ぎ取ると、自らの華奢な肩を覆い隠すように深く羽織った。下卑た男の体温と脂の臭いが鼻を突き、肌に粟が生じる。だが、その重厚な革が、女としての細い輪郭を闇の中に塗り潰してくれた。彼女は外套のフードを深く被り、奪い取った短剣を握りしめて走り出した。

魔導灯が不気味に明滅する通路を、音もなく駆け抜ける。奪い取った分厚い革の外套を翻し、リュカは己の正体と、女としての震えをその重みの下に封じ込めていた。
突き当たりの雑居房。鉄格子の向こうで、二人の人影が、まるで寒さに震える幼い獣のように身を寄せ合っているのが見えた。

「ミーナさん! アンナさん!」
リュカが鍵を抉り開け、扉を蹴破る。その音に反応し、独房の隅で「ヒッ……!」という短い悲鳴が重なった。
「嫌……! 来ないで、来ないで……っ!!」
「……私です! リュカです! 助けに来ました!」

逆光の中に立つリュカの声に、狂乱の淵にいた二人の肩が大きく跳ねた。顔を上げたミーナの瞳は、焦点が定まらず、ただ涙と恐怖に濡れている。彼女たちは、リュカが今その身を隠している外套の下と同じ、あの薄く清浄すぎる『器の衣』を纏わされていた。
「リュカ、さん……? ……ああ、あああああ……ッ!!」
正気を取り戻したミーナが、這いずるようにしてリュカの足元に縋り付いた。

「助けて……助けてください、リュカさん……ッ! さっき、あの男たちに、服を……あんな、あんなにひどいことを……っ!」
ガチガチと歯の根も合わないほど震えながら、ミーナはリュカの外套の裾を、指の骨が浮き出るほどの力で握りしめる。
「怖い……まだ、頭の中に、あの男たちの声が……っ。逃げなきゃ、早く逃げないと殺される……!」

「大丈夫……! 大丈夫ですから、私を見て。……ほら、どこも……酷いことなんて、されていない。間に合った、間に合ったんだ……っ!!」
リュカは叫ぶように言いながら、二人を力いっぱい抱きしめた。薄い衣越しに触れる彼女たちの腕や肩は、驚くほど滑らかで、瑞々しく、乱暴に扱われた痕跡など微塵も感じられない。
(……ああ、よかった。神様、ありがとうございます……。まだ、取り返しのつかないことには、なっていないんだ……!)
溢れ出す安堵の涙が、リュカの頬を伝い落ちる。彼女たちが訴える『恐怖』は、今まさに始まろうとしていた地獄の序幕に過ぎなかったのだと、リュカは自分に言い聞かせるように、その温もりを強く、強く噛み締めた。

「立ってください! ユズリハ様たちを……お二人を救い出して、すぐにここを離れます。もう、誰にも指一本触れさせはしません!」
リュカは二人を力強く抱き起こした。
執行官の外套の下で、自分も彼女たちと同じ屈辱の衣を纏い、正体を暴かれた恐怖に震えていたことなど、今の安堵の前では些細なことのように思えた。彼女は重い外套を翻し、まだ足元がおぼつかない二人を支えながら、施設の上層へと繋がる階段を探した。

(……丸腰で進むわけにはいかない。せめて、短剣一本でもあれば……ッ!)
重厚な革の外套を握りしめ、リュカは己の無力さに唇を噛んだ。
騎士としての誇りも鎧も奪われた今の彼女にとって、この不気味な迷宮はあまりに広すぎ、そして残酷すぎる。
彼女は壁の影に身を潜めながら、武器になりそうなものを求めて、ねっとりとした熱気が漏れ出す扉へと手をかけた。

扉のプレートには、掠れた文字で『不浄物収蔵室』と記されていた。
中へ踏み込むと、そこは鼻を突く血の臭いと鉄錆、そして……それらをすべて塗り潰すほどに強烈な、場違いなまでの「花の香り」に満ちていた。
雑然と積み上げられた廃棄物の山。その隅にある、汚物に塗れた大きな器の中に、リュカは目を疑うものを見つけた。

「……っ、これは」
不浄な廃棄物の器から、リュカは震える手でその『布』を引っ張り出した。
それは、あの日、執行官たちの下卑た手によって無残に破り捨てられたはずの――楪の『薄氷の聖衣』であった。

ゴミの中に無造作に放り捨てられている事実は、楪が今、身ぐるみ剥がされた状態で囚われているという、騎士にとっての最悪の現実を突きつけた。守るべき主(あるじ)の尊厳がゴミ溜めに打ち捨てられている光景に、リュカの視界が怒りと後悔で赤く染まる。

「アンナさん、これを持っていてください」
リュカは、拾い上げた白亜の布地を、隣で震えるアンナの手へと静かに手渡した。
「ユズリハ様の……っ」
「しっかり。私はこれから、お二人を救い出すための道を作ります。……その聖衣は、あなたが守るのです。いいですね?」

託された聖衣を抱きしめるアンナの瞳に、微かな使命の光が宿る。リュカは傍らに転がっていた安物の短剣を一本奪い取ると、それを逆手に持ち直した。分厚い執行官の外套を翻し、再び廊下へと這い出る。
焦燥だけを刃に変えて、リュカは一歩、また一歩と影に同化するように進んでいった。

虚妄の福音、黄金の帰還

(……無策で突き進むのは、死にに行くのと同じだ)
迷宮のようなこの施設で、楪たちが監禁されている場所を闇雲に探す時間はない。
リュカは壁の影に深く身を潜め、獲物が通りかかるのを待った。

やがて、カツン、カツンと乾いた靴音が響いてきた。角から現れたのは、白の法衣を纏った一人の信徒だった。彼は手元の数珠を弄りながら、恍惚とした表情で祈りの言葉を吐き出し続けている。周囲の様子など一切目に入っていないその様子は、信仰という名の狂気に塗り潰されていた。

リュカは外套を大きく翻し、音もなく背後から襲いかかった。純白の布地が信徒を包み込み、短剣の切っ先がその喉元を鋭く撫でる。だが、信徒の瞳に宿ったのは恐怖ではなく、不気味な歓喜だった。
「ああ……主よ……。ついに、私を『聖別』へと……」
「黙れ。これは救済ではない。執行官による『不浄の審問』だ」
リュカは冷酷な声を信徒の耳元で這わせた。塞がれた口の隙間から漏れる熱を、短剣の冷たさで押し殺す。

「『聖別室』はどこだ。答えを拒むなら、貴様の魂が主に届く前に、その肉体を不浄のまま肉塊に変える。……執行官のやり方は知っているな?」
短剣の刃をわずかに滑らせ、皮膚を薄く裂く。教団において執行官とは、肉体だけでなく魂の処遇すら司る『死神』だ。不浄なまま死ぬという最大の恐怖に、信徒の瞳から恍惚が消え、濁った絶望が溢れ出した。
「……ひ、っ……。階段を、上がった……最上階……。白金の意匠がある……扉の、奥です……っ!」

「……感謝する。不浄なる眠りにつけ」
リュカは短剣の柄で信徒の項(うなじ)を強打し、その意識を確実に断ち切った。崩れ落ちる身体を物陰へ引きずり込むと、リュカは男が纏っていた白の法衣(ローブ)を迅速に剥ぎ取った。

「アンナさん、これを」
リュカは、背後で待たせていた二人の元へ戻ると、剥ぎ取ったばかりの法衣をアンナの手へと託した。
「……っ。ありがとうございます、リュカ様」
アンナはそれを受け取ると、すぐさま隣で身を竦ませているミーナの肩へと掛けようとした。だが、ミーナは自分と同じく肌を晒しているアンナを見上げ、震える声で首を振った。
「……でも、アンナさんだって……。私だけ、こんな……」
「いいのよ、ミーナ。私は平気。……あなたはまだ体が小さいのだから、冷えてしまうわ。さあ、袖を通して。……リュカ様、申し訳ございません。すぐに行きますわ」

アンナの優しくも毅然とした言葉に促され、ミーナは涙を拭いながら、ぶかぶかの法衣に身を包んだ。楪の聖衣を抱きしめるアンナと、法衣を羽織ったミーナ。二人の侍女の覚悟を確認し、リュカは短剣を逆手に持ち直した。分厚い外套を翻し、再び廊下へと這い出る。

進むにつれて壁の石材は磨き上げられ、床には冷気を遮る厚手の絨毯が敷かれ始めている。そこが施設の『上層』であり、最も重要で、最もおぞましい『聖別』が行われる場所であることは間違いなかった。
通路の角に辿り着くたび、リュカは壁に背を預け、巡回する教徒たちの足音を壁越しに聞き分ける。彼らが祈りに没頭するわずかな隙、死角から死角へと、二人を引き連れて距離を詰めていった。

最上階。重厚な石造りの回廊の突き当たりに、信徒が白状した通りの白金の扉が立ちはだかっていた。
その扉を外側から無慈悲に封じているのは、あの日、ラザス自らが下ろした巨大な金属製の閂(かんぬき)であった。

リュカは震える両腕でその重厚な閂を掴んだ。冷たい鉄の感触が、焦燥に焼かれる掌に突き刺さる。どうか、どうかご無事で。祈りにも似た衝動を力に変え、彼女は渾身の力で閂を跳ね上げた。鈍い金属音が静寂を切り裂き、彼女はなだれ込むようにして扉を押し開けた。

 

※※※

 

影一つ許さない、潔癖なまでの白に塗り潰された世界だった。
視界の端から端までを埋め尽くす白い大理石の床は、鏡面のように磨き上げられ、天井のどこからともなく降り注ぐ柔らかな拡散光を吸い込んでは、静謐な輝きを投げ返している。そこにあるのは、ただ無機質なまでに清浄な空気と、時が止まったかのような深い静寂だけだった。

その広大な白の真ん中で、フィオナの意識はゆっくりと、微睡みの淵から浮上していった。頬に伝わるのは、冷たい石の感触ではない。それは、吸い込まれるような柔らかな弾力を湛えた、確かな命の温もりだった。
フィオナの頭は今、しっとりと肌に吸い付くような聖別の白衣越しに、楪の膝の上に優しく乗せられている。
重力に従ってわずかに沈み込むその質感は、あまりに、あまりに……慈悲深く、フィオナの魂を安らぎという名の泥濘へと沈めていく。

「…………ん」
かすかな吐息が、白い空間に溶ける。フィオナの長い睫毛が微かに震え、重い瞼がゆっくりと持ち上げられた。
ぼんやりとした視界が、光の粒子を捉えては焦点を結んでいく。

最初に映ったのは、彼女を包み込むように覗き込んでいる、澄んだアメジスト色の双眸だった。

視界を占めるのは、前屈みになったことで重力を受け、白衣の薄い布地を内側から押し広げる柔らかな肉体の質量。
見上げるフィオナにとって、それは慈愛そのものの重みだった。
白衣に走る微細な皺が、密着した肌の熱量を静かに物語っていた。

「……目を覚まされたのですね、フィオナ様」
頭上から降り注いだのは、澄んだ鈴の音のように凛として、それでいて雪解けの水のように穏やかな、礼節を湛えた声だった。

その声には、焦燥も、恐怖も、絶望の欠片すらも混じっていない。ただ、そこにある平穏を当然のものとして受け入れる、絶対的な静寂が含まれていた。
楪は微笑みながら、白く細い指先をフィオナの髪へと沈め、愛おしげに、ゆっくりとその毛並みを撫で上げる。
指先が地肌を掠めるたび、微かな熱が電気信号のように背筋を駆け抜ける。
その指先にも、それを受け入れるフィオナの首筋や手首にも、どこにもあの『青銀の枷』は存在しない。

白磁のように滑らかな肌が、ただ楪の指先の温もりを、何の障害もなく受け入れていた。

「ユズリハ……」
フィオナの声は掠れ、震えていた。だがそれは恐怖からではない。あまりに、あまりに……満ち足りた安らぎに対する、魂の戸惑いだった。
彼女は自身の体を確認するように、ゆっくりと指先を動かす。重い鎖の感触も、引き摺るような金属音も、今はもう遠い幻覚のように霧散している。ただ、白衣の薄い布地越しに、楪の柔らかな体温と確かな肉体の質量だけが、鼓動と共に伝わってくる。

「ええ、フィオナ様。大丈夫ですよ。もう、なにも心配しなくていいのです」
楪の笑顔は、あまりに、あまりに……完璧だった。彼女はさらに深く身を乗り出し、フィオナの頬を慈しむように包み込んだ。
聖別の白衣越しに伝わる、楪の肉体の柔らかな弾力。
フィオナの鼻腔をくすぐるのは、楪の肌から立ち上る、清廉でどこか甘い残り香だった。
ただ、触れ合う。そのあまりに当然のような親密さだけが、この白い部屋の沈黙の中に、確かな現実として刻み込まれていく。

フィオナは、自身の頬を包む楪の手のひらに、甘えるように顔を寄せた。
白衣の布地が擦れる微かな音が、静寂に満ちた部屋に、あまりに、あまりに……生々しい輪郭を持って響き渡る。
至近距離で覆いかぶさるように密着した、楪の柔らかな重みと温かさを、フィオナは全身で受け入れた。

ここでは、二人の睦み合いを拒むものは何もない。
それが、何者かの手によって塗り替えられた虚構の平穏であることを、彼女たちの心はもう、拒絶することすら忘れてしまった。
二人が互いの瞳に映る安らぎを確認し合うように、静かな言葉を交わしていた、その瞬間だった。

カチャリ、と。
重い金属の閂が、静寂の中に無機質な音を立てて跳ね上げられた.完璧に密閉されていた聖域の表面に、冷徹な亀裂が走る。
直後、なだれ込むような勢いと共に、白い扉が押し開かれた.逆光を浴びて、なだれ込んだ人物の輪郭は大きくぼやけ、フィオナの瞳には焦点の合わない光の塊として映る。
だが、その人物が身に纏っているのは、見紛うことなき執行官の純白のローブだった。

執行官。
その言葉が脳裏を過った瞬間、二人が共有していた温かな安らぎは、一瞬にして凍りついた。
枷のない自由も、触れ合う喜びも、すべては新たな迫害のための残酷な前奏曲に過ぎなかったのか。
――ああ、また、なにかをされる。ただそれだけの、けれど抗いようのない絶望が、逃げ場のない毒のように、静かに彼女たちの心を侵食していった。

「っ……! 嫌……来ないで!! お願い、来ないでぇっ!!」
扉が開いた衝撃に、フィオナが顔を覆って絶叫した。無理やり着替えさせられた薄手の布の下で、彼女の細い肩は、極限の恐怖に激しく波打っている。

「ユズリハ様! フィオナ様!! 私です、リュカです!!」
死線を越えてきた騎士の、血を吐くような叫び。その声に、ガタガタと震えていた楪が、縋(すが)るように顔を上げた。
その瞳には涙が溢れ、唇は紫に変わるほど激しく震えている。
「リュカさん……ッ! リュカさんなのね……!? お願い、早く……早くここから出して……っ!! 怖い、怖いよ……っ!! あの男が、また来る……っ!!」

「はい……! すぐに、今すぐに!!」
リュカは駆け寄り、ベッドに敷かれた厚手のシーツを力任せに引き裂いた。その布を、傍らに控えていたアンナへと託す。
「アンナさん、これを。……フィオナ様を、お願いします」
「……っ、はい!!」
アンナは引き裂かれた布を受け取ると、自らの身を覆うよりも先に、フィオナの元へと寄り添った。彼女の肩へ掛け、優しく抱きしめる。

アンナに支えられ、ようやくフィオナの悲鳴が嗚咽へと変わる。その間に、リュカはアンナの肩にもう一枚の布を掛け、さらにアンナが守り抜いた『薄氷の聖衣』を楪の手へと差し出した。

「……どうして」
楪は、震える手でその白い布を受け取った。

リュカは戦慄を奥歯で噛み締め、最後の一枚のシーツを、聖衣を纏った楪の肩を包み込むようにして素早く羽織らせた。
「……さあ、行きましょう。私の側を、決して離れないで」
リュカは背後の闇を振り切るようにして、施設の外へと飛び出した。

出口を抜けた瞬間、彼女たちの瞳を射抜いたのは、眩いばかりの朝の光だった。
「朝日だわ……」
楪が呟くその光は、彼女たちが信じる『翌朝』を祝福するように、森の木々を黄金色に染めていた。

月影の揺らぎ、あるいは真実の熱

施設を抜け出し、朝日を拝んだのも束の間。リュカを待ち受けていたのは、人目を避け、死線を彷徨う過酷な逃走劇であった。
街道から遠く引き離された山中。薄いシーツを纏うだけの少女たちの手を引き、追手の影に怯えながら、道なき林の中を夜陰に乗じて突き進む。放置された廃屋で身を寄せ合い、震える彼女たちに体温を分け与えながら夜を明かす日々は、執拗に繰り返された。

逃走を始めてから、数日が過ぎていた。
死の森を抜け、荒野を這い、彼女たちの肉体はすでに限界を越えていた。
肌にこびりついた乾いた泥と、拭っても消えない血の臭い。そんな絶望的な疲労の果てに、彼女たちはその場所を見つけた。森の奥深くに隠された、鏡のように静かな湖だった。

「……綺麗。ねえ、水浴びしてもいいかな?」
フィオナの掠れた声に、楪とアンナ、そして幼いミーナが顔を見合わせる。
リュカは無言で周囲の気配を探り、短く頷いた。

「私が周囲を警戒しています。皆さんは今のうちに、汚れを落としておいてください」
その言葉を合図に、少女たちは競うようにして、ボロボロの布きれを脱ぎ捨てた。

「ひゃ……っ、つめたい……」
「静かに、ミーナ。声が響いてしまうわ」
アンナがミーナを窘めながらも、自身もまた、数日ぶりに触れる冷たい水の感触に、小さく安堵の息を吐いた。
パシャ、と控えめな水音が夜の静寂を揺らす。

楪とフィオナは、互いの背に残る汚れを、震える手で優しく、丁寧に洗い流し合った。
「……生きてるのね、私たち」
「……うん。……生きてる。私たち、ちゃんと生きてるよ、フィオナ様」
ひそひそと交わされる囁き声は、水の波紋のように静かに広がり、やがて夜の闇へと溶けていく。

リュカは一人、湖に背を向け、暗闇の奥を見つめ続けていた。
彼女たちの無邪気な水音を聞きながら、その手は、腰に携えた唯一の守り手――短剣(ダガー)の柄を、無意識に握りしめていた。

水浴びの後、彼女たちは小さな焚き火を囲んだ。
パチッ、パチッ……と乾燥した枝が爆ぜる音が、まるで誰かの鼓動のように力強く響く。

「明日の夜明けには、次の山を越えましょう。そこまで行けば、追っ手の目も逸らせるはずです」
リュカの言葉に、アンナが小さく頷き、眠たげなミーナを自身の布の中に抱き寄せた。
「……ありがとう、リュカさん。あなたがいてくれなかったら、私たちは今頃……」
「お礼なら、安全な場所に着いてからにしてください。……さあ、今のうちに少しでも身体を休めておいてください」
炎に照らされた彼女たちの横顔は、泥に汚れながらも、どこか神聖な輝きを帯びていた。

やがて、焚き火の火が小さく、穏やかな光へと変わる頃。ようやく仲間たちが深い眠りに落ちたのを確認して、リュカは静かに立ち上がった。
全身を包む重い緊張を解くように、一人、湖畔へと歩み寄る。
月明かりの下、リュカは己の正体を隠し続けてきた、厚手の大きな白いローブを脱ぎ捨てた。
重い布地が地面に落ち、夜の冷気に晒されたのは――見紛うことなき、しなやかで美しい女性の肢体だった。

ローブの厚みに隠されていた、華奢な肩のラインと、引き締まった腰のくびれ。
戦いの中で刻まれた数条の傷跡すらも、月光を浴びた白い肌の上では、高貴な紋様のように映る。
リュカはゆっくりと水に入り、張り詰めていた心を静寂の中に沈めていった。

 

※※※

 

焚き火が小さく爆ぜる音と、隣で眠るフィオナの穏やかな寝息。けれど、楪の意識はいつまでも覚醒したままだった。
数日間の逃走、そして先ほど触れた水の感触が、神経を鋭く研ぎ澄ませている。
彼女はそっと寝床を抜け出し、吸い寄せられるように、月明かりを反射する湖畔へと向かった。

草を踏む音すら立てないよう、慎重に。辿り着いた水辺で、楪は不意に足を止めた。
地面に横たわっているのは、あの不格好なほどに厚手の、白いローブだ。……リュカがいる。
そう確信した瞬間、心臓が跳ねた。戻るべきか。けれど、水面を揺らす微かな音が、彼女の足を一歩、先へと進ませてしまった。

視界が開けた先、月光を一身に浴びて、一人の女性が立っていた。
……いや、それは、リュカだった。大きなローブの厚みに隠されていた、華奢な肩のライン、引き締まった腰のくびれ。
水面に浮かぶその肢体は、戦いの中で刻まれた数条の傷跡すらも、高貴な紋様のように映し出している。
そこに居るのは、皆を導く不屈の守護者ではなかった。ただの、あまりに、あまりに……美しい、一人の『女性』。

「……綺麗」
堪えきれず、楪の唇からその一言が零れ落ちた。静寂の中に、その囁きが波紋のように広がる。

リュカの全身が、弾かれたように凍りついた。反射的に水面に身を沈め、鋭い眼差しでこちらを射抜く。だが、そこに立つのが楪だと気づいた瞬間、その瞳に見たこともないほどの動揺が走った。
「ユズリハ様……っ!? なぜ、こちらに……っ」
声が震えていた。己のすべてを曝け出してしまった、隠蔽の崩壊。
けれど楪は、もう逃げるつもりはなかった。身に纏った布を解き、真っ白な肢体を月光の下に晒すと、そのまま湖へと足を踏み入れた。

「ずっと、守ってくれてありがとう。……ねえ、リュカ。私、あなたのことが……好きなの」
波紋が二人の距離を縮めていく。リュカは必死に顔を背け、震える声で拒絶しようとした。
「いけません……。何を、仰っているのですか。私は、皆様を欺いていたのです。私は……男などではなく、ただの、女なのです。騎士として、あってはならない偽りを……」
突き放すような、けれど自責に声を震わせるリュカの言葉。だが、楪は水の中で迷いなく彼女の首に手を回した。
「分かっています。さっき見て、分かったわ。でも……そんなこと、関係ない。男とか、女とか、そんなのどうでもいいの。私を、私たちを救ってくれたのは、あなたなのよ、リュカ」

楪はそっと額を寄せた。月光に濡れた二人の肌が重なり、水の冷たさを上書きするほどの熱が生まれる。
リュカは拒絶しようとしたその手を、いつの間にか楪の細い腰へと回し、すがりつくように強く引き寄せていた。
静寂の湖上で、二人の唇が重なる。

それは、絶望の逃走劇の中で、ようやく手にした、たったひとつの剥き出しの真実だった。

 

※※※

 

焚き火の火が熾火(おきび)へと変わり、周囲の闇が一段とその濃度を増した頃。
アンナは、微かな衣擦れの音で、静かにその瞳を開いた。
長年、王宮でフィオナの傍らを預かってきた彼女にとって、夜の静寂の中での覚醒は、ごく自然な習慣だった。

毛布を肩にかけ直しながら、アンナは戻ってきた二人へと視線を向けた。
白いローブを深く羽織り直したリュカと、その一歩後ろを歩く楪。
焚き火の淡い光に照らされた二人の立ち姿は、どこか、先ほどまでとは異なる重みを孕んでいるように見えた。

「……リュカさん。ユスリハ様」
アンナは、落ち着いた声で短く二人に呼びかけた。
二人の足が、僅かに止まる。リュカは視線を逸らしたままで、楪はどこか遠くを見つめるような表情を浮かべていた。

「何か、ありましたか?」
アンナの問いは、純粋な懸念からくるものだった。
暗闇の中で二人が不測の事態に遭わなかったか、あるいは、極限状態の中で体調を崩してはいないか。
その控えめな、けれど確かな問いかけに、リュカの肩が僅かに強張る。

「……いいえ。周囲に異常はありません。少し、冷え込んできました。皆様を起こさないよう、火を絶やさないようにしましょう」
返ってきたのは、いつも通りの冷静な敬語。けれど、その声は心なしか掠れていて、彼女が握りしめているローブの裾が、微かに震えているのをアンナはぼんやりと見つめた。アンナはそれ以上、踏み込もうとはしなかった。

「承知いたしました。……リュカさんも、夜明けまで少しでも身体を休めてください。まだ先は長いですから」
アンナは静かにそう告げると、再びミーナを抱き寄せ、目を閉じた。

夜明けを待つ静寂の中に、二人の微かな呼吸の音だけが、残り火と共に溶け込んでいった。

十五日目の安堵

朝靄が、ゆっくりと、けれど確かな光を帯びて晴れていった。
立ち止まったフィオナの瞳に、その巨大な影が飛び込んできたのは、重い足取りが限界を迎えようとしていた、まさにその時だった。
荒野の果て、地平線の境界線にそびえ立つのは、見紛うことなき王都の堅牢な石門。夜を徹して逃げ延び、死の影に怯え続けた彼女たちが、ついに辿り着いた『生存』の象徴だった。

「あ……ああ、あ……っ」
声にならない呻きが、フィオナの唇から漏れた。膝の震えを止めることができず、彼女はその場に崩れ落ちる。それを支えるように、楪が背後から彼女の体を強く抱き寄せた。
逃走の道中で泥に汚れ、ボロボロになった簡素な布きれ。
けれど、密着したその布地越しに伝わる互いの体温は、この冷徹な世界で唯一信じられる、確かな命の熱量だった。

「ユズリハ……っ、ユズリハ……!!」
フィオナは、楪が纏う薄い布地に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き崩れた。溢れ出した熱い涙は、瞬く間にその布を透かし、直接、楪の肌を濡らしていく。

「ええ、フィオナ様。見えますか……あそこが、私たちの帰る場所です」
楪もまた、フィオナを抱きしめる腕に力を込め、その瞳から大粒の涙を零していた。
彼女はフィオナの額を自分の額に寄せ、乱れた髪を慈しむように撫でながら、震える声で何度も、何度も繰り返した。
「……もう、大丈夫。あんな暗い場所に、もう二度と戻ったりしない。私たちは、二人で……一緒に生き延びたのよ……っ!!」

朝日を浴びて輝く城門を背に、二人はただ、互いの存在を確かめ合うように強く、強く抱き合い続けた。
布一枚を隔てただけの剥き出しの抱擁は、どんな豪華なドレスよりも、どんな堅固な鎧よりも、今の彼女たちを優しく、そして確かに守っていた。

ようやく王都の城門が見えてきた頃、検問に立つ兵士たちが、亡霊でも見るかのように目を剥いて彼女たちを凝視した。
「り、リュカ殿……!? ご無事だったのですか! 聖女様も、フィオナ様も!」
「……ええ。今、戻りました」
泥と汗に汚れ、見る影もなくボロボロになったリュカの声に、兵士は戦慄し、震える手で自らの胸に祈りを捧げた。

「何ということだ……! 捜索隊が出てから、今日で十五日目……。まさか、生きて戻られるとは!」

「……待て。今、なんと言った」
リュカが、絞り出すような声で兵士を遮った。その瞳には、安堵を掻き消すほどの鋭い戦慄が宿っている。
「十五日目……? 何かの間違いだ。我らが連れ去られたあの日から、まだ六日。……長く見積もっても、一週間と経っていないはずだ」

「い、いえ……。聖女様たちが姿を消されたあの日から、もう半月が過ぎております。間違いありません、今日は王国暦で……」
兵士の当惑した声が、静まり返った城門に響く。

リュカの背後で、楪が、そしてフィオナが、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。シーツの下で、楪の白く滑らかな指先が、自分の腕を強く、強く爪が立つほどに握りしめる。

楪は、自らの腕を見つめた。十日間の空白。監禁されていたその時間そのものが、彼女たちの記憶から光景も感触も、何一つ残さず削り取られている。痛みも、汚れも、蹂躙された記憶すら存在しない「綺麗な自分」。だというのに、暦だけが、自分たちの預かり知らぬ場所で、十日間分の蹂躙を無慈悲に証明していた。

リュカは、あの日、ラザスが懐中時計の蓋を閉じた時の音を思い出した。
失われた十日間。その間、彼女たちは何をされていたのか。
なぜこれほどまでに「何もされていない」と確信できるほど綺麗なのか。目に見えない蹂躙の重みに、リュカの膝が激しく震えた。

「……リュカさん。……ねえ、私たちの十日間は……どこへ行ったの?」
震える楪の問いに、リュカは答えることができなかった。

 

※※※

 

王都への帰還から、数時間が過ぎた。
楪、そしてフィオナたちは、それぞれの自室へと引き取られていった。十日という「消失した半月」の報告に王都は激震したが、当人たちが不自然なほど健康であるという事実が、かえって周囲の混乱を深めていた。

深夜。騎士団宿舎の自室に戻ったリュカは、重い鎧を脱ぎ捨て、姿見の前に立った。
鏡の中、五日間の逃走でついた擦り傷のすぐ隣に、あの日、襲撃現場で負ったはずの重傷の痕跡が、一塵も残っていない無傷の肌がある。

リュカは震える指先で、その「何もなさ」をなぞった。
あの男、ラザスの狙いは、監禁そのものではなかったのではないか。
数時間の感覚で十日以上を奪い、外界と断絶させる。
その目的は、自分たちが不在の間に『白き乾涸(アル・カ)』の侵食を抗えない段階まで進行させ、戻った時にはすべてが手遅れになっている……そんな「詰み」の状況を作り出すことこそが、あの時計の真の機能だったのではないか。

本来なら、扉を開けた瞬間に絶望が確定していたはずだ。
だが、自分たちは奇跡的に逃げ延び、こうして王都へ戻ることができた。

「ああ、よかった、無事でよかった」と。

リュカは安堵のため息とともに、その滑らかな肩をなぞった。
(……助かったのだ。本当に、戻ってこられたのだな)
あの地下室での出来事は、すべて悪い夢だったのではないか。そんな錯覚すら覚えるほど、今の自分の身体は平然としていた。
あの日、あの男の懐中時計が鳴った時、何が起きたのか。
その悍ましい仮説をなぞるよりも、こうして無傷で、楪様を守り抜いて帰り着いたという重い事実だけが、今の彼女を包み込んでいた。

共に戻ったフィオナも、別れ際にはすでに落ち着きを取り戻していた。あの日、馬車を襲った絶望も、恐怖も、今の彼女からは微塵も感じられなかった。まるで最初から何もなかったかのように、彼女は穏やかな表情で自室へと下がっていった。

(……よかった。本当に、よかった)
リュカは灯火を消し、使い慣れたベッドへと身を横たえる。身体に刻まれた五日の現実と、消し飛ばされた十日の異常。その全てをのみ込み、明日の朝になれば、またいつも通りの騎士としての日常が始まる。彼女はそう信じ、深い眠りへと落ちていった。

 

※※※

 

翌朝、リュカの証言に基づき、王国騎士団の精鋭による、かつてない規模の討伐隊が即座に編成された。
王女と聖女の尊厳を蹂躙した大逆人を八つ裂きにすべく、鉄の規律と怒号が王都に響き渡る。彼らは風を切り、リュカたちが脱出したあの山中の施設へと殺到した。

しかし、数刻後。討伐隊が辿り着いたその場所は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
施設はもぬけの殻だった。地下の実験場も、豪華な応接間も、王女たちが繋がれていた監禁室も。生活の痕跡すら、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に拭い去られていた。

残されていたのは、ただ冷え切った石壁と、空ろな暗闇だけ。あの男の行方も、奪われた十日間の証拠も、何もかもが闇に消えていた。

すべてを「無かったこと」にしたまま、ただ『乾涸』の侵食だけが、音もなく世界を蝕み続けている。

第9話:白の檻、銀の枷(完)


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