PR 純真の落日

聖女の詩、白の余白 ー 第10話:社交界の影 —— 偽装麗人の鉄拳

凍月 楪

一夜にして、真実は「無」へと洗浄された。

聖女と王女の尊厳を蹂躙した教団の拠点は、駆けつけた討伐隊を嘲笑うかのような、不気味なほどの静寂に包まれていた。

生活の匂いも、争った痕跡も、滴り落ちたはずの血も……。そこには、最初から何も存在しなかったかのような潔癖な「白」だけが広がっている。

法の手が届かぬ闇の中、悪意は音もなく形を変え、世界を蝕む『乾涸』の侵食を加速させていく。

奪われた証拠と、届かぬ正義。騎士団がその無力さに唇を噛む中、一人の騎士が静かにその仮面を脱ぎ捨てる決断を下す。

それは、聖なる誓いを捨ててでも真実を暴くための、最も美しく、最も醜い「偽装」の始まりであった――。

澱んだ秩序の最果て

「――証拠がないだと? 現場には、聖女一行を拉致しようとした痕跡すら残っていなかったと、そう言うのか!」
王都騎士団本部の作戦会議室。円卓を力任せに叩く騎士団長の怒声が、重厚な石壁に跳ね返り、室内の空気をビリビリと震わせた。
磨き上げられた黒檀のテーブルの上には、数枚の報告書と、霊峰付近の地図が乱雑に広げられている。
窓から差し込む午後の陽光が、宙を舞う埃を白く浮き上がらせていたが、室内の空気は澱んだ冬の夜のように重く冷え切っていた。

団長の拳が触れたテーブルの端からは、みしり、と不穏な軋み音が漏れ出している。
その音に応えるように、報告を行う分隊長の声も、困惑と屈辱に震えていた。
「はっ……。信じがたいことですが、教団の拠点はもぬけの殻。それどころか、血痕一つ、争った跡一つ残されておりませんでした。
まるで、最初から誰もいなかったかのように……隅々まで清められていたとのことです」

現場に派遣された騎士たちが目にしたのは、無惨な死体でも、逃走の形跡でもなかった。
それは、壁の煤一つ、床の埃一つまでが徹底的に取り除かれた、異常なまでに「白い」空間。
鼻を突くのは強烈な薬品の残り香だけであり、生活の匂いすらもが削ぎ落とされたその場所は、まるで最初から地図の上に存在しなかったかのような無機質な虚無を晒していたという。

それは個人の手際などではない。
教団『エイス・アル・カ・ルム』が抱える、冷徹な隠蔽専門の兵站部隊による組織的な工作だ。
彼らは数時間のうちに施設を解体し、あらゆる痕跡を歴史の闇へと洗浄してのけたのだ。
あまりに鮮やかなその手腕は、そこに確かに存在したはずの悪意そのものをあざ笑うかのような、巨大な組織力の証明でもあった。

「公式な捜査権を持つ我々が、こうも一方的に後手に回らされるとはな……」
騎士たちの間には、掴もうとした影が指の間から霧散していくような、言いようのない無力感が広がっていた。
どれほど強力な剣を振るおうとも、切り裂くべき「証拠」という実体がなければ、正義はただの妄想として扱われる。
牙を抜かれた獅子のように、騎士たちは「法」という名の分厚い壁の前に立ち尽くすしかなかった。

「……ゼーリッヒ公爵だ。教団の最大出資者という『公然の秘密』を抱えながら、王宮議会に深く根を張る権力によってその尻尾を掴ませない、あの狡猾な狸が裏で糸を引いているのは明白だというのに!」
団長が、苦々しくその名を吐き捨てる。
彼への強制捜査を訴える騎士団長に対し、議会が下した判断は「憶測に基づく不当な介入の却下」であった。

公爵が微笑みを浮かべて王宮へ寄付金を積むたびに、騎士たちの血の滲むような捜査令状は、価値のない紙屑へと成り下がっていく。
証拠がなければ、公爵は『教団の熱心なパトロン』という無垢な仮面を剥がされることはない。
政治という名の澱みは、真実よりも手続きを、正義よりも均衡を優先するのだ。
会議室に居並ぶ精鋭たちの顔には、激戦を乗り越えた疲労よりも深い、暗い絶望の影が差し込んでいた。

沈黙が、冬の霧のようにじわじわと室内の体温を奪っていく。
その静寂が流れる会議室の隅で、リュカは壁に背を預けたまま、その氷のような瞳を細めていた。
ゆったりとした白いチュニックの襟元に触れる彼女の指先が、微かに、けれど鋭く震えている。
法が守るのは真実ではなく、既存の秩序のみ。そしてその秩序の裏側で、教団という毒が脈打っているのだ。

(……白く塗り潰すのが教団のやり方なら、私はその白を侵食する一滴の澱みになってやる)
リュカの思考が、冷徹な殺意を帯びて研ぎ澄まされていく。
公爵という巨大な盾を物理的に破壊することはできない。
ならば、その盾の影に潜り込み、公爵自らにその正体を晒させる「何か」を掴めばいい。

そのためには、騎士としての誇りも、これまで積み上げてきた規律も、一時的にすべて捨て去る必要があるだろう。
たとえそれが、自らを最も忌むべき姿へと変えることになっても。
品格を装うウエストコートとチュニック、その幾重もの布地の下で、自身の肉体を締め上げている「さらし」の圧迫感が、今はひどく熱く、そして重い鎖のように感じられた。
女であることを捨て、騎士としての「嘘」を突き通してきたこれまで。
その「嘘」を、今度は別の「嘘」で上書きし、敵の喉元を喰らうための牙にするのだ。

「……団長。非公式な、潜入調査の許可を」

静かだが、研ぎ澄まされた鋼のような声が会議室の沈鬱な空気を切り裂いた。
リュカは一歩、円卓を照らす強い光の中へと踏み出す。その整った顔立ちには、既に迷いなど微塵も存在しなかった。
「今夜、公爵邸で開かれる仮面舞踏会。証拠が消されたのなら、新たな証拠を奴の口から引きずり出すまでです。
私が、その役を担います。騎士団の名を汚すことなく、あくまで私の独断として。……私には、奴の警戒を解くための『策』があります」

騎士団長は、射抜くようなリュカの視線を真っ向から受け止め、一瞬だけ躊躇いを見せた。
だが、彼女の瞳の奥に宿る揺るぎない覚悟を読み取り、やがて重々しく頷いた。
「……リュカ。お前が動くというなら、止めはせん。だが、失敗すれば騎士団は関与を否定せざるを得ない。
我々は、お前を助けには行けんのだぞ。……いいな、死ぬなよ。お前を失えば、我々にこれ以上の手立てはない」

「了解しています。……その心配には及びません」

リュカは短く答えると、踵を返し、一度も振り返ることなく会議室を後にした。
廊下を歩く彼女の背中は、既に一人の守護者ではなく、獲物を狙う冷酷な狩人のそれへと変貌し始めていた。
一歩、踏み出すごとに、身体の中心でじわりと熱が広がるのを感じる。
宿舎へと向かう足取りは、いつになく軽く、そして恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。

黄金の解放、鏡像の偽装

騎士団宿舎の自室に戻ったリュカは、背後で扉を閉めると同時に、重い閂を下ろした。
カチャリ、という金属音が静まり返った部屋に小さく響く。
この扉の向こう側は、規律と鉄の匂いが支配する男たちの世界。けれど、数歩で壁に突き当たるほどのこの簡素な寝所だけは、彼女が唯一「騎士リュカ」という仮面を緩めることが許される、聖域であり、そして最大の秘密を閉じ込めた檻でもあった。

壁に立てかけられた姿見の前へ歩み寄る。そこには、凛々しい隊服を纏い、髪を短くまとめ上げた一人の青年騎士が立っている。
(……バレはしないだろうか)
ふと脳裏を過ったのは、もしこの偽装が剥がれ落ちた時の絶望だった。追放されるだけならまだいい。騎士団の、ひいては王国の権威を汚した大逆人として、彼女の居場所はどこにもなくなるだろう。

その不安を振り払うように、リュカは会議室を去る間際の、団長との短いやり取りを思い出した。
廊下で彼女を呼び止めた団長の目は、冷徹な上官のそれではなく、全てを察した父のような、あるいは共犯者のような光を宿していた。
「ユリアンを付けろ。あいつは非番の連中を『個人的に』連れ出す名分を持っている。……いいか。その姿を晒している間は、一分の隙もなく『令嬢』であれ。奴の懐に飛び込むその瞬間まで、誰一人として『騎士リュカ』の影を悟らせるなよ」

 

※※※

 

「……よし」
自分に言い聞かせるように呟くと、リュカは慣れた手つきで濃紺のウエストコートのボタンを外し始めた。
上質なチュニックが床に滑り落ち、続いて肌着が脱ぎ捨てられる。最後に残ったのは、彼女の胸元を執拗なまでに締め上げている、幅広の『さらし』だった。
幾重にも巻かれたそれを解いていくたびに、肺が深呼吸を思い出したかのように大きく波打つ。
最後の一巻きが解け、床に落ちた。

「っ……あ……」
解放された肉体が、初めての自由を謳歌するように熱を帯びる。
鏡の中に映し出されたのは、締め付けられていた痕が赤く残った、白く、柔らかな双丘。
それは騎士としての誇りの代償であり、彼女が殺し続けてきた「女」の証明でもあった。
続いて、ひとつにまとめ上げていた髪の結び目を解く。すると、束ねられていた黄金の奔流が、堰を切ったように肩から背中へと溢れ出した。
腰まで届くその輝きは、油と鉄の匂いに満ちたこの部屋にはあまりに不釣り合いなほど、神秘的で、そして暴力的なまでの色香を放っていた。

ベッドに横たわるのは、深海を切り取ったようなサファイアブルーの重厚なベルベット。

胸元から裾へと流れる銀のアラベスク刺繍と、その中心で冷たく鎮座する大粒のサファイア、そして肩口から溢れるティアードラッフルが、騎士の無骨な部屋を暴力的なまでの優雅さで侵食していた。

「……本当に、これを着るのか。私に……務まるのだろうか」
騎士としての強固な自意識が、目の前の豪奢な衣装を拒絶するように震えている。
けれど、彼女は吸い寄せられるように、その深青(サファイアブルー)のベルベットへと手を伸ばした。

慎重に、まるで未知の獣に触れるような手つきで、リュカはその重厚なドレスに足を通す。
さらしから解放された肌に、ベルベットの冷たくて柔らかな質感が直接触れ、背筋を逃げ出したくなるような熱い震えが駆け抜けた。
ドレスの重みに身体を委ね、肩のラインを合わせてから鏡の前に立つ。

そこにいたのは、見るも無惨な『不調和』だった。
身体の曲線を露わにするサファイアブルーのドレスに対し、顔つきは冷徹な騎士そのもの。
短くまとめられた髪と、戦場を見据える鋭い瞳が、優雅なティアードラッフルの中でひどく浮いて見えた。
「……これでは、ただの『滑稽な変装者』ではないか」

自嘲気味に呟く彼女の瞳に、焦燥にも似た火が灯る。
この『騎士』という殻を、内側から完璧に食い破るだけの『毒』が必要だ。
リュカは一度ドレスを脱ぎ捨てると、下着姿のまま、アンナに頼んで密かに用意させた化粧箱を開いた。

筆に紅を取り、震える指先で唇をなぞる。白粉を肌に滑らせ、まつ毛を整え、氷のような瞳の奥に、男を狂わせるための「毒」を点じていく。

一筆ごとに、騎士リュカの面影が消え、代わりに見知らぬ麗人が鏡の中に形を成していく。
凛々しかった眉は優雅な弧を描き、冷徹だった眼差しは湿り気を帯びた熱を宿し始める。
それは、彼女自身の本質を最大限に引き出した、最も気高く、そして最も卑猥な偽装。

「……これが、私……?」
鏡の中の女が、信じられないものを見るように瞬きをした。そこにいるのは、王都中の男たちを膝伏せさせ、一瞥だけで公爵の理性を溶かしてしまうであろう、一人の完璧な『麗人』だった。

静まり返った部屋に、ギリギリと紐が鳴る音と、短く苦しげな吐息だけが響く。
美しさを強要するようなコルセットの拘束に身を委ね、肺から空気が押し出されるほどの力で、彼女は己の肉体を『女』へと造形し直していった。
肺が圧迫される苦しさと引き換えに、鏡の中には騎士服の下に隠されていたはずの「女の曲線」が鮮烈に浮き彫りになった。
さらしの解放とはまた違う、美しさを強要するようなこの拘束に、彼女は微かな目眩を覚えた。

その上に、重厚なサファイアブルーのベルベットドレスを滑らせる。
肌に沈み込むような濃密な質感は、先ほどまでの護衛服とは正反対で、身体そのものが甘く溶けてしまいそうな錯覚を覚えた。
大粒のサファイアが鎮座する胸元を整え、袖口のティアードラッフルを揺らせば、そこに一人の麗人が完成した。

リュカは部屋の隅にある三面鏡の前に立ち、その姿を多角的に確認した。

「……なるほど、これが今夜の私の『武器』というわけか」
三面鏡の鏡像の中に現れたのは、黄金の髪をハーフアップにし、エンジ色の小さなリボンで結んだ、完璧な『麗人』だった。
オフショルダーの胸元には銀の刺繍が氷の結晶のように這い回り、中央のサファイアが冷たく輝いている。
鏡の向こうには、羽ペンとインク瓶が置かれた机と、その奥にベッドが見え、この空間が確かに彼女の無骨な自室であることを証明していた。

右から見れば、誇り高き貴族の令嬢。
左から見れば、秘密を孕んだ危うい美女。
正面から見れば……自らの「性」を牙に変え、深淵へと飛び込もうとする一人の狩人。
「騎士の誇りだと? 今夜はそんなものは、このドレスの下に仕舞っておけ。私が成すべきは、公爵を深淵へと誘うこと、ただそれだけだ」
鏡の中のリュカが、艶然と微笑んだ。その表情には、もはや一分の隙もない。

対面、あるいは不敬な衝撃

コンコン、と。静まり返った部屋に、いかにも彼らしい、自信に満ち溢れた無遠慮なノックが響いた。
「おい、リュカ。いつまで準備に時間をかけている。女装ごっこに手間取っているなら手伝ってやろうか?」
返事も待たず、勝手に扉が開かれる。そこに立っていたのは、整った容姿をこれ見よがしに誇示するような、軽薄でいけすかない同僚――ユリアンだった。

けれど、彼は皮肉を言いかけた口を開けたまま、石像のように固まった。
目の前に佇むのは、いつも不機嫌そうに訓練場を走り回っている堅物な同僚ではない。
深い闇を湛えたサファイアブルーのベルベットに身を包み、肩から黄金の髪を溢れさせた、この世のものとは思えないほど気高く、そして毒々しいまでに美しい『麗人』だった。

「……。おい、マジかよ。……お前、本当にあのリュカか?」
ユリアンの琥珀色の瞳が、品定めするように、いや、剥き出しの欲望を隠そうともせずに彼女を上下に舐め回す。
「……あまりジロジロ見るな。作戦のために仕立てた『武器』だと言っただろう。不服か」
リュカは冷徹に言い放ち、鋭い眼差しだけでその不躾な視線を跳ね返す。だが、その拒絶さえもが完成されたリュカの高慢さを際立たせ、ユリアンの鼻持ちならない好奇心を煽った。

「いや、不服どころか……。化け物だな、お前。特にその……胸のあたりとかよ。一体どれだけ綿を詰め込んだんだ? 重すぎて剣も振れなさそうだが」
ユリアンは小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、コルセットで強調され、サファイアを押し上げるように豊かに波打つ彼女の胸元を指差した。

「貴様、何を……」
「あんまり不自然だと、夜会で公爵に笑われるからな。俺がチェックしてやるよ」
有無を言わせぬ傲慢な手つき。ユリアンは制止する間も無く、大きな掌でリュカの豊かな膨らみを正面から無造作に鷲掴みにした。

ぐに、ぐにりっ、と。
男の力強い掌の圧力がドレスのベルベットを蹂躙し、その下に隠された――決して作り物では出し得ない、吸い付くような弾力と生々しい熱を、容赦なく揉みしだいた。

「……ひゃんっ!?」
可憐で明確な『女性』の響きを持った悲鳴が、彼女の唇から漏れ出す。
掌から伝わるあまりに直接的な衝撃に、脳髄が白く弾け、全身が熱く火照り、膝がガクガクと震え出す。

「……ッ! おい、どんな仕掛けだよ、これ……」
ユリアンの顔から余裕が消え、代わりに取り憑かれたような好奇心が琥珀色の瞳に宿った。掌いっぱいに溢れる熱、指の隙間から逃げ出すような弾力。彼はその感触を解き明かそうとするように、さらに深く、執拗に指先を食い込ませる。
「……柔らかさも、この生々しい熱も……出来が良すぎてとても綿とは思えねえぞ。一体どうやってんだ、これ?」

「さ、触るなと言っているだろう、この下衆が!」
リュカは顔を真っ赤に染め、怒りと羞恥に震えながら叫んだ。
彼女は即座に、銀の刺繍が施された重厚なベルベットのスカートを両手で力任せにたくし上げると、剥き出しになったしなやかな脚で、ユリアンの腹部を思いっきり蹴り飛ばした。

「ぶはっ……!?」
不意を突かれたユリアンは、騎士としての訓練を積んだリュカの容赦ない一撃を受け、後方の壁まで派手に吹っ飛んだ。
「……っ、痛ぇな……。お前、ドレス着てその蹴りはねえだろ……」
「黙れ! 次に触れたら、その指を二度と動かせないようにしてやる!」

肩で息をしながら、リュカは乱れたドレスの裾を乱暴に整えた。
心臓が壊れそうなほど脈打ち、触れられた場所が、いつまでも暴力的な熱を帯びて疼いている。

「……フン、随分と敏感な『武器』だな」
ユリアンは腹をさすりながら立ち上がり、バツが悪そうに、だが執拗に掌に残る「生々しい感触」を振り払うように拳を握り、冷たく鼻で笑った。
その瞳には、もはや同僚への軽蔑ではなく、自分を惑わすほどの完璧な『擬装』を完成させた相棒に対する、底知れない不気味さと歪んだ好奇心が宿っていた。

「行くぞ。馬車が待っている。……あまりそのツラで、余所の男をたぶらかすなよ。化けの皮が剥がれて、俺まで巻き添えを食うのは御免だからな」
ユリアンが扉を開き、仰々しく先導する。
リュカは屈辱に震える脚を叱咤し、ドレスの裾を翻して部屋を出た。

部屋を出て廊下を進むと、そこには非番の騎士たちが数名たむろしていた。
「おい、ユリアン。これからどこの貴婦人を――」
軽口を叩こうとした男たちは、ユリアンの後ろから現れた『麗人』を見た瞬間、揃って言葉を失った。
「……!?」
磨き上げられた鎧のようなサファイアのドレス。騎士たちの目は一様に釘付けになり、一人は手に持っていた手入れ用の布を床に落とした。誰もが、これが自分たちの堅物な副団長リュカであるとは夢にも思わず、未知の女神の降臨にただ圧倒されていた。

城門の前に停まった馬車へ、ユリアンがわざとらしく、恭しく手を取る。
「さあ、お手をどうぞ。我が愛しき妹、ルシル。足元にお気をつけて」
皮肉たっぷりの笑みを浮かべ、彼は洗練された所作でエスコートのポーズを取る。
リュカはその手を取りながら、周囲の目があるために怒りを押し殺し、耳元で聞こえるか聞こえないかの冷徹な声を落とした。
「……お前、この任務が終わったら、絶対に首を撥ねてやるからな」
「そいつは楽しみだ。今はせいぜい、その重い『武器』を落とさないように気張ることだな」

ユリアンの軽薄な囁きを背に、リュカはドレスの裾を翻して馬車に乗り込んだ。
動き出した馬車の窓から、呆然と自分を見送る騎士たちの顔が遠ざかっていく。
馬車の揺れを感じながら、リュカは膝の上で固く拳を握りしめた。今夜、彼女はリュカではない。公爵を深淵へと誘う、毒を秘めた一輪の薔薇――ルシルなのだ。

揺れる檻、あるいは淑女の調律

馬車の中は、革の匂いとベルベットの湿った重みが混ざり合った、逃げ場のない沈黙に満たされていた。
石畳を叩く馬蹄の規則的な響きだけが、刻一刻と迫る「戦場」へのカウントダウンを刻んでいる。
向かいの席では、ユリアン――今夜のユリウス・ダヴネルが、未だに腹をさすりながら、忌々しげに窓の外を眺めていた。
彼が纏うミッドナイトブルーの夜会スーツは、計算し尽くされた仕立ての良さを誇り、広いラペルに施された銀の刺繍が、車内の淡い灯火を拾って冷たく明滅している。

「……ったく。加減ってものを知らねえのか、お前は。せっかくのベルベットが台無しだ。俺がもし普通の男だったら、今頃は内臓が弾けてるぞ」
「……。自業自得だと言ったはずだ。貴様が、不必要に触れなければ済む話だった」
リュカ――氷の麗人ルシルは、膝の上で拳を固く握りしめたまま、低く凄みのある声で応じた。
サファイアブルーのドレスの重みは、さらしから解放された胸元の無防備さを強調し、先ほど彼に「鷲掴みにされた」場所が、いまだに不快な熱を帯びて疼いている。それは屈辱という名の、消えない刻印のようだった。

「ふん。その『不必要な接触』が、今夜の俺たちの唯一の命綱なんだよ。いいか、ターゲットはゼーリッヒ公爵だ。奴が宗教集団『エイス・アル・カ・ルム』の最大出資者であるという証拠……それを奴自身の口から吐かせるか、あるいは私室へ誘い込んで決定的な記録を暴くのが今夜の任務だ」

ユリウスはミッドナイトブルーの袖口を整え、意地悪く目を細めた。
「公爵の目をその美貌で釘付けにし、奴から私室へと連れ出させる。そのために、わざわざそんな『武器』を着せてやったんだからな。……分かっているのか?」

「わかっている……。奴を誘い込み、隙を見て言質を取る。……それだけのことだ」
ルシルはサファイアのドレスの重みに耐えながら、低く鋭い声で応じた。
けれど、ユリウスは即座に鼻で笑い、彼女の言葉を切り捨てた。
「『わかっている』、じゃない! その声だ、その騎士然とした喋り方が一番危ねえんだよ」

ユリウスはいけすかない笑みを浮かべ、身を乗り出してルシルの顔を覗き込んだ。
「お前は今夜、隣国から静養に来た、世間知らずで可憐な男爵令嬢、ルシル・ダヴネルなんだ。いいか、言ってみろ。『……存じておりますわ、お兄様』だ。ほら、語尾を震わせろ。甘く、柔らかくな」
「……。ふざけるな」
「ふざけてねえよ。公爵は女の『不調和(淀み)』を見抜く天才だ。お前のその鋼鉄みたいな意志が、少しでも言葉の端から覗けば、その瞬間に首を撥ねられる。……やれ」

リュカは屈辱に奥歯を噛み締め、喉まで出かかった罵倒を飲み込んだ。
触れられた場所の不快な熱が、いまだに意識の底で燻っている。
「……存じて、おりますわ。……お兄様……。これで、満足……かしら?」
絞り出した声は、ひどくぎこちなく、毒を飲まされた小鳥のように不自然だった。

「……合格点には程遠いが、まあ、酷い二日酔いの令嬢だと思えば通じなくもないか。いいか、ルシル。今夜だけは自分を殺せ。お前は、俺に守られるためだけに存在する可憐な妹……ただの『飾り』だと思え」

馬車が公爵邸の正門を抜け、車輪の音が滑らかな石畳の響きへと変わる。
「……時間だ。仕上げといこう」
ユリウスが、傍らに置かれていた二つの仮面を手に取った。彼はまず、自分の顔にマットブラックの無機質なアイマスクを装着する。その瞬間に、いけすかない同僚の顔は、洗練された「謎」を纏う貴族へと塗り替えられた。

「さあ、お前の番だ」
差し出されたのは、黒いレースの上に黄金のフィリグリーが翼のように広がる、精巧なマスカレードマスク。ルシルがそれを目元に当てると、ユリウスが背後に回り、彼女の黄金の髪を掻き上げた。耳の後ろで細い黒のベルベットリボンを器用に結び合わせる際、彼の指先が、冷えたうなじに一瞬だけ触れる。
「……っ」
ルシルは小さく身を震わせた。仮面の奥、黄金の髪と黒レースのコントラストの中で、彼女の瞳がサファイアの欠片のように鋭く、冷たく輝き始める。

「……完璧だ。これなら公爵も、自分の喉元に本物の剣が突きつけられるまで、お前が騎士だとは気づかないだろうよ」
ユリウスは満足げに囁き、扉に手をかけた。馬車が静かに停車し、フットマンが扉を開ける。
「さあ、行きましょうか、ルシル」
ユリウスが先に降り、恭しく手を差し伸べる。ルシルはその手を取り、ベルベットの重みを優雅な動作へと変えて、光の渦へと降り立った。
大階段を上る際、ユリウスが極めて自然な動作で、彼女の細い腰をぐいと引き寄せた。耳元で、甘く、毒を含んだ吐息が囁かれる。

「……笑え。獲物が目の前にいるぞ」
その視線の先、エントランスのホールで賓客を迎えているのは、冷酷な知性と権力を瞳に宿した、今夜の標的――ゼーリッヒ公爵だった。

毒蛇の宴、あるいは死神の影

巨大な扉が左右に開かれた瞬間、叩きつけられたのは暴力的なまでの光の奔流だった。
数千もの蝋燭が灯るクリスタルのシャンデリア、高価な香水と芳醇な葡萄酒が混じり合った重苦しい空気。そして、着飾った貴族たちの喧騒。
「……。行きましょうか、ルシル」
エスコートするユリウスの腕に添えた指先に、無意識に力がこもる。ルシルはその指の震えを、騎士としての武者震いではなく、世間知らずな令嬢の緊張へと無理やり塗り替えた。

「……ご覧なさい、あのお方を。見覚えはございませんが、どこの貴顕(きけん)のご令嬢かしら」
「……今宵、社交界に現れた一筋の凍星(いてぼし)か。なんと峻厳にして、研ぎ澄まされた気品だ」
サファイアのドレスを纏ったルシルが階段を下りるたび、会場の視線が吸い寄せられるように彼女へと集中した。黄金の髪はシャンデリアの光を反射して輝き、仮面の奥に潜むサファイアの瞳は、一切の不純物を撥ね退けるような峻厳さを湛えている。
だが、その優雅な歩みの内側で、ルシルの神経は戦場の如く研ぎ澄まされていた。

(……っ!?)
背筋を氷の刃でなぞられたような戦慄が走る。視界の隅、談笑する貴族たちの輪から少し外れた場所に、彼女は「それ」を見つけてしまった。
白。真珠のような光沢を放つ、重厚なシルクの夜会服。
一切の肌を晒さぬハイネックと長袖の装いでありながら、それは成熟した肢体の曲線を残酷なまでに強調する、一分の隙もないマーメイドシルエットを描いていた。

縫い目に沿って施された微細な銀のビーズは、凍てつく窓に張った霜の如く冷ややかな光を湛えている。
露出を完全に排することで、かえってその冷徹な存在感を凝縮させたような、侵しがたい威圧感が漂っていた。
教団『エイス・アル・カ・ルム』の暗殺者――ニルヴァ。漆黒の髪とは対照的な白銀の仮面には、透き通ったシフォンのベールが設えられ、その奥では燃えるような真紅の瞳が、獲物を探す猛禽のように怪しく発光していた。

ベールの隙間から覗くその瞳孔には、白銀の『十字の虹彩(クロス・パピル)』が鮮烈に刻み込まれている。赤と白の圧倒的なコントラストが、見る者の魂を凍りつかせるような、神聖にして不浄な殺意を放っていた。
(なぜ、連中の『白き処刑人』がこんな場所に。もしここで正体が露見すれば、任務の失敗どころか、証拠を握る公爵は口封じのために即座に『処分』される……!)

「……お兄様、あちら。……招かれざる『白(しろ)』の影が紛れ込んでおりますわ」
極めて自然な微笑みを崩さず、ルシルは扇の陰で、喉の奥から微かに囁いた。

ユリウスは視線を動かさず、優雅に葡萄酒のグラスを傾けながら、群衆の中に紛れる異質な「白」を網膜に焼き付けた。

「……。なるほど、記録にあった通りの『白き処刑人』というわけか。……この華やぎの中に、死の臭気を持ち込むとは不調和なことだ。ルシル、決して目線を合わせるな。仮面を過信せず、あの異質な瞳の射程から外れるんだ。今はただ、人波と『主(あるじ)』を壁にしろ」

「……存じておりますわ。……あの方の視界を遮るため、まずは主へ挨拶に向かいましょう」
ルシルは沸き立つ「騎士の戦慄(せんりつ)」を、頬を染める「淑女の熱(ほて)り」へと強引に変換し、僅かに顎を引いた。

ニルヴァの視線から自然に外れ、かつ公爵という巨躯を「物理的な盾」として選ぶ……。彼女は迷いなく、圧倒的な「強者」の重圧を放つ男――ゼーリッヒ公爵の元へと歩を進めた。
完璧に整えられた銀灰色の髪に、手入れの行き届いた口髭。贅沢を極めながらも決して弛んでいない大柄な体格は、周囲を威圧する底知れない風格を湛えている。

「……お初にお目にかかります、ゼーリッヒ閣下。ダヴネル家のルシルと申しますわ」
ルシルはあえて公爵に寄り添うように、深く、優雅なカーテシーを決めた。顔を上げた瞬間、他人を値踏みするような鋭い灰色の瞳に、どろりとした『欲望の淀み』が浮かぶのを彼女は見逃さなかった。

公爵は、その場に跪く「氷の麗人」の白い首筋と、ドレスから覗く豊かな胸元を、剥き出しの卑猥な視線で舐め回している。
美しいものを手に入れるためなら、教団の禁忌さえも微笑んで受け入れる――そんな男の最奥にある腐敗が、無遠慮な熱となってルシルの肌を刺した。

「……ほう。ダヴネル、か。失礼ながら耳慣れぬ名だが……まさかこれほど峻厳(しゅんげん)な美を湛えた逸材が、未だ社交界の片隅に埋もれていたとは。……ルシル嬢、そのサファイアは、君の瞳の輝きに比べればただの石塊(いしくれ)に過ぎないな」
公爵の太い指が、ルシルの手を取り、その甲に不快な熱を帯びた接吻を落とした。

「……恐悦至極に存じます、閣下。……それゆえ、まずは閣下にこそ、わたくしたちの領地のことを深く知っていただきたいのです。……お兄様には聞かせられないような、大切なお話を」
ルシルは扇の端から、熱っぽく、しかし冷徹な計算を秘めて公爵を見上げた。

案の定、公爵の瞳には獲物を丸呑みにせんとする大蛇のような『欲望の淀み』が溢れ出し、彼はもはや理性の手綱を自ら放り出したようだった。この「掘り出し物」を誰にも渡さぬよう、彼はその巨躯でルシルを囲い込むように引き寄せ、満足げに鼻を鳴らした。

「……ふむ。なるほど、面白い。君のような美しい薔薇の『棘』なら、喜んで突き刺されよう。……案内させよう。こちらへ来たまえ、可憐なルシル嬢。二人きりで、君の領地の『深い話』を聞こうじゃないか」

扇情の罠と剥がされた素顔

重厚なマホガニーの扉が閉じられ、広間の喧騒は厚い木材の向こう側へと切り離された。代わりに支配するのは、濃厚なムスクの香りと、捕食者の吐息。

――カチャリ。

鍵の閉まる音が、退路を断たれたことを冷酷に告げる。

「……さて。もう隠す必要はあるまい」
振り返る間もなかった。公爵の太い指が、ルシルのこめかみに添えられたリボンへと伸びる。

――プツンッ。

強引な力で引き千切られたのは、金色の紋様が踊る黒レースの仮面(マスカレードマスク)だった。

「……っ!? あ……」
不意に視界が開け、冷たい空気が素肌に触れる。ルシルは思わず立ちすくみ、喉の奥で震えるような吐息を漏らした。露わになったのは、夜の闇を溶かしたようなサファイアブルーの瞳と、一筋の淀みもない黄金の髪に縁取られた、絶世の美貌。

公爵は、その「素顔」を至近距離で捉えた瞬間、喉を鳴らして感嘆の息を吐き出した。
「……素晴らしい。仮面の奥にこれほどの『宝石』が眠っていたとはな。……なるほど、最初からそのつもりだったのだろう? ルシル嬢」
公爵は勝ち誇ったように、ルシルの顎を乱暴に持ち上げた。

「こうして二人きりになり、その若く美しい肢体(からだ)を担保に、ダヴネル家の地位を盤石にしようと……。ふふ、健気な野心ではないか。体を使ってまで、私との『関係』を構築したかったというわけだ。……望み通り、存分に可愛がってやろう」

(……愚か者が。勝手にこちらの意図を『卑しい野心』だと読み替えてくれる……。これほど扱いやすい男もいないわ)
ルシルは屈辱に震える肩を抱き、わざとらしく視線を泳がせた。その足取りは、計算された「逃げ腰」のまま、背後の天蓋付きベッドへと誘導されていく。

「……ああ、閣下……。そんな風に言われては、わたくし、身も蓋もございませんわ……。……きゃっ!?」

――ッ、ビリ。

ルシルは足元をふらつかせ、自身のヒールでドレスの裾を踏み抜く。

――ドサリ。

悲鳴と共に、彼女の体は仰向けにベッドへと沈み込んだ。

――ギィ……。

高級なスプリングがルシルの体重を受け止め、重苦しく沈む。その衝撃で、サファイアのドレスが大きく、無防備に捲れ上がった。

「……っ!? ……あ、は……。……見ないで、くださいませ、閣下……っ。……こんな、はしたない……っ」
ルシルは顔を真っ赤に染め、震える両手で顔を覆うようにして身を縮めた。人工的な支えを一切排した胸元は、タイトなコルセットの硬質な縁からこぼれんばかりに、生々しいほどに自然な柔らかさと重みで呼吸に合わせて波打っている。

拘束を逃れた柔肉が、コルセットの形に縛られない不規則な揺れを見せる。その「作り物ではない」質感こそが、公爵の征服欲をこれ以上ないほどに煽り立てた。
「ふふ……。案ずるな、ルシル嬢。君の『不器用さ』は、最高のおもてなしだ。隠そうとすればするほど、その白い肌と、呼吸に忠実なその胸元が私を招いているように見えるぞ?」

公爵は、乱れた裾を掻き寄せようとするルシルの足首を、太い手で逃がさぬよう強引に掴み上げた。
「……っ、あ……。……閣下の手、お熱くて……。わたくし、どうなってしまうの……」
熱っぽい吐息と共にルシルが身を捩ると、

――サァ…….

滑らかなシルクが膝を滑り、真珠のような光沢を放つ白いストッキングに包まれた太腿が、公爵の至近距離で露わになった。銀のクリップが鈍く光る精巧な黒レースのガーターベルトが、その柔らかな肉に僅かな食い込みを作っている。

公爵の鋭い灰色の瞳が、ドレスの闇の奥、内腿に装着された「銀色の魔法装置」を捉えて細められた。
「ほう……。この期に及んで、まだ隠し持っている『装飾品』があるというのか。……欲張りな小鳥だ。この銀の飾りも、私を悦ばせるための秘密の仕掛けかな?」

「……。……閣下のために、わたくしなりに『用意』してきたものなのですが……。そんな、卑猥なものだと思われてしまうなんて……あまりに、意地悪ですわ……」
ルシルは顔を覆っていた指をわずかに開き、潤んだ瞳で公爵を「上目遣い」に見つめた。拒絶の言葉とは裏腹に、その誘うような眼差しは、さらなる「鑑定」を熱望しているかのようだった。

「……っ!? ……ぁ、は……っ」
ルシルの唇から、熱を帯びた、震えるような吐息がこぼれた。

――スゥ……。

公爵の節くれ立った太い指が、真珠光沢のストッキングを撫で上げ、黒レースのガーターが食い込む太腿へと這い上がった。銀のクリップをなぞり、その奥に隠された「銀の魔法装置」を無造作に弄ぶ。

「……っ、ふ……あ……閣下、そ、そこは……っ」
初めて経験する、粘りつくような「雄」の重圧。銀の飾りに触れる指の熱が、ストッキング越しに伝わり、ルシルの思考を真っ白に染め上げる。騎士としての冷静さは霧散し、彼女はただ呆然と、焦点の合わない瞳で天井を見つめ、喉の奥で微かな、甘い悲鳴を漏らすことしかできなかった。

――グニュリ。

その「無防備な声」を歓喜と履き違えた公爵は、さらに勢いづく。タイトなコルセットの縁から溢れる、人工的な支えを排した胸元を、力任せに、その大きな掌で包み込んだ。

「……はぁっ! ……あ、は……っ。……ん、んぅ……っ」
掌を跳ね返すような、生身の柔肉の弾力と重み。指の間に沈み込む柔らかな質感に、公爵は喉の奥で獣じみた唸り声を上げる。ルシルの身体は、未知の感触に弓なりに反り、コルセットに押し上げられた胸が、彼の指の隙間からこぼれんばかりに激しく波打った。

「はしたないなどと言いながら……。ふふ、これほどまでに熱く、私を誘っているではないか」
公爵の湿った舌が、無防備に晒された白い首筋に吸い付き、這い回る。

――レロ……。

「……っ、あ……。……閣下……あ、は……っ」
首筋に走るぬらりとした感触と、耳元で響く下卑た吐息。そのあまりの生々しさが、ルシルの「空白」を強引に引き裂いた。
(……っ!? ……いけない、このままでは……本当に、『女』として潰されてしまう……!)

生理的な悪寒と、使命感が火花を散らす。ルシルは反射的に喉元までせり上がった殺意を必死に押し込み、震える手で公爵の厚い胸板を押し返した。
「……っ、閣下。……閣下、お待ちくださいませ……っ! ……そんなに急がれては、わたくし……あまりの悦びに、壊れてしまいますわ……っ、はぁ……」

ルシルは涙を溜めた瞳で公爵を見上げ、潤んだ唇で懸命に「誘いの微笑」を紡ぎ出した。
「……夜はまだ、始まったばかりでございます。……まずは、閣下の喉を潤して差し上げたいのです。……この素晴らしい出会いを祝して、葡萄酒で乾杯をさせてはいただけませんか?」

暗転する寝室と銀の証言

ルシルは、迫りくる公爵の太い腕を柳のようにかわすと、サイドテーブルのデキャンタへと歩み寄った。公爵の視線は、歩くたびに波打つ黄金の髪と、あらわになった白い背中に、卑しく、そして陶酔しきった様子で吸い寄せられている。

背を向けたまま、ルシルはドレスの深くはけだた胸元……その温かな肌の隙間に潜ませていた小さな硝子瓶を、指先の器用さだけで引き抜いた。
公爵の荒い鼻息がすぐ背後にまで迫る中、彼女は澱みのない所作で二つの杯に葡萄酒を注ぎ、その片方へ、無色透明の薬液を数滴落とした。

(……さあ、飲み干すがいい。その醜い欲望の代償として、お前の腹の内をすべて暴いてやる)
胸の内に渦巻く激しい嫌悪を「令嬢」の仮面で塗り潰し、ルシルは毒を忍ばせた杯を公爵へ、もう片方を自らへと掲げた。二つのクリスタルが重なり、高く、澄んだ音が静まり返った寝室に響く。

「ああ、ルシル……。君との再会に、乾杯だ」
公爵は哄笑し、葡萄酒を喉へと流し込んだ。ルシルもまた、自らの杯に口をつけ、優雅に喉を鳴らす演技を見せる。公爵の警戒心は、目の前で共に酒を煽る美女の姿と、喉を焼く酒精の刺激によって、跡形もなく霧散していった。

「……ふふ。嬉しいですわ。……ねえ公爵、ひとつ教えてくださらない? あなた様ほどの御方が、なぜこれほど小さな領地に甘んじていらっしゃるの? もっと相応しい、王都の椅子だって望めるはずですのに」
ルシルは公爵の膝にそっと手を置き、潤んだ瞳でその顔を覗き込んだ。普段であれば「女が口を挟むことではない」と一蹴されるはずの不躾な問い。だが、薬が回り始め、理性の綻びだした公爵にとって、それは自尊心をくすぐる心地よい誘惑となって響く。

「はは……よくぞ言った、ルシル。その通りだ。……王都の軟弱な連中など、私の足元にも及ばん。……近いうちだ。この国を統べる真の主が誰であるか、思い知らせてやるつもりなのだからな……」
公爵の瞳から知性が抜け落ち、虚ろな熱が宿り始める。澱みなく溢れ出したその言葉は、彼が心の最深部に隠し持っていた、どろりとした野心の塊だった。

(……喰いついたな。……舌が回るうちに、さらに奥まで引きずり出してやる)
公爵は、ルシルの潤んだ瞳と差し出された杯に完全に毒され、その太い喉を大きく鳴らして葡萄酒を飲み干した。

――ゴクッ、ゴクッ、……プハァ。

「……ふぅ。なるほど、君が注ぐと、安物のヴィンテージさえ神の雫に感じられるな」
公爵は満足げに唇を拭い、空になったクリスタルのグラスを無造作に絨毯へと放り捨てた。

――ボトッ。

柔らかな絨毯が音を吸い込む。それと同時に、公爵の視界もまた、粘りつくような酩酊に吸い込まれ始めていた。自白剤が、彼の理性の扉を強引に抉じ開け、醜悪な本音を溢れ出させる。

「……。……閣下。わたくし、お聞きしたかったのです。……閣下がこれほどまでに『特別』なのは、やはり……あの『エイス・アル・カ・ルム』との深い繋がりがあればこそ、なのでしょう?」
ルシルは、公爵の膝の上でその胸板に身を寄せ、熱っぽく、しかし正確に「核心」を突いた。

「……ふ、ふふ。察しがいいな、小鳥よ。……そうだ。あやつらは、扱いやすい道具よ。……信者どもが差し出した『浄化金』を、私の領地を中継して国庫へと還流させる。……そのたびに、莫大な手数料が私の秘密口座へと転がり込むのだ」
公爵の口から、もはや隠す気もなくなった腐敗した真実が、淀みなく溢れ出す。

「秘密口座……? それは、帳簿さえ残さなければ、誰にも気づかれないという事ですか?」
「そうだ……。……奴らとの契約書も、裏帳簿も、この部屋の壁の裏に……私だけの金庫に眠っている。……王でさえ、私の財布の中身を覗くことはできん。……教団の連中も、私の洗浄がなければ一文無しよ……。すべては、このゼーリッヒの掌の上よ……!」
自白剤に理性を焼かれた公爵は、自身の「商才」を誇示するように、破滅の言質を次々と吐き捨てていく。

(……とったわ。資金洗浄、脱税、教団との共謀。……すべて、逃れようのない『事実』よ)
ルシルは、公爵の首筋に回していた腕の力を不意に抜いた。その瞳から「令嬢ルシル」の熱い光が消え、代わりに氷のような、鋭利な騎士の眼光が宿る。

「……。……閣下、お話は十分ですわ。……貴方のその醜悪な『自慢話』、すべて聞き届けました」
「……な、何を……? ルシル、お前、急に何を言って……」
公爵が狼狽し、彼女の肩を掴もうとしたその時、ルシルは内腿のストッキングの端、銀色の装置に指先を触れさせた。

――キィン……。

微かな、しかし鋭い魔力の共鳴音が静かな寝室に響く。装置が淡く青い光を放ち、それは外で待機するユリウスたちの持つ対の魔石へと「突入の合図」を送った。

「この銀の輝きが、貴方の夜の終わりを告げる光です。……今この瞬間、屋敷を取り囲む騎士団に、わたくしの『合図』が届きました。……公爵、貴方の罪はここで裁かれます」
「……っ!? き、貴様……私を、謀ったのか……っ! この、泥棒猫がぁ……!」
公爵は激昂し、その巨躯でルシルをベッドに組み伏せようと、震える手を伸ばした。

だが、自白剤による酩酊は、もはや彼をただの重苦しい肉の塊に変えていた。ルシルはベッドの上でしなやかに身を翻し、公爵の鈍重な一撃を容易く回避する。

「お前……、ルシル……貴様、何者だ……っ!」
「……残念ながら、ルシルなどという令嬢は、最初からこの場にはおりませんわ」
ルシルは乱れたドレスの裾を翻し、ベッドのそばに立つ。その立ち姿は、もはやか弱い淑女ではなく、戦場に立つ一振りの剣――騎士リュカのそれだった。

――ドンッ!!

寝室の扉が、外側から凄まじい衝撃で蹴り破られた。

「そこまでだ、ゼーリッヒ公爵! 王命により、貴公を身柄拘束する!」
室内に飛び込んできたのは、抜身の剣を構えたユリアンだった。その背後には、銀の甲冑に身を包んだ王立騎士団が、一分の隙もなく展開し、瞬く間に公爵を包囲する。

「な、何だ貴様らは……! 下賎な騎士風情が、この私の寝室に土足で踏み込むとは……! 誰の許しを得て……っ!」
公爵はベッドの上で這いつくばりながら、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。目の前に立つ騎士が誰であるかなど彼には判らぬが、その「不敬」だけは許しがたい。
しかし、ユリアンの瞳にあるのは、軽蔑と冷徹な職務遂行の意志だけだった。

「貴公が自らの口で語った汚職の数々、そして教団との共謀。……我々はすべて、この扉の外で聞き届けた。貴公が隠し持っていた裏帳簿も、今頃は我が部下たちが壁の裏から引きずり出しているところだ」
「……ぁ、あ……、なぜだ……。どこで、漏れた……」
絶望に顔を歪め、公爵はその場に崩れ落ちた。自白剤の影響で力が入らぬまま、彼は名も知らぬ騎士たちの手によって、冷たい鉄の枷をはめられていく。

その喧騒の中、ユリアンは剣を鞘に収めると、ベッドの傍らで「女装のまま」立ち尽くすリュカへと歩み寄った。
ユリアンの視線が、一瞬だけリュカの姿を捉える。サファイアブルーのドレスは胸元まで乱れ、白い首筋には公爵が残した生々しく不浄な痕跡が赤く浮き上がっていた。

「……。……酷い面(つら)だな、リュカ」
ユリアンは、居心地が悪そうに視線を逸らした。
同じ男として、任務とはいえこれほどの屈辱を耐え抜いた戦友に対し、どう声をかけていいのか判らないといった様子だ。
彼は自分のマントを乱暴に解くと、それをリュカの頭からぶっきらぼうに放り投げた。

「……っ。……おい」
「隠せ。そんな格好で表へ出るつもりか。……後の始末は俺たちがやる。貴様はさっさと着替えてこい。……酒の味も分からなくなる前に、な」
ユリアンは一度もリュカと目を合わせないまま、顎で出口を示した。その言葉には、同情ではなく、過酷な「汚れ仕事」をやり遂げたライバルへの、最大級の敬意が混じっていた。

リュカは、頭から被せられた重いマントを肩で整え、その端を無言で握りしめた。マントからは、冷たい夜風と、自分と同じ「騎士の匂い」がした。

「……あら。……助けに来るのが、少しばかり遅かったのではないかしら。……ねぇ、お兄様?」
その声は、騎士リュカの無骨な響きではない。つい先刻まで公爵を狂わせていた、あの令嬢ルシルの、甘く残酷な囁きだった。リュカは乱れたドレスの裾をエレガントに裁き、マントを羽織ったまま、ユリアンに向かって完璧なカーテシーを披露してみせる。

「見て。わたくしのこの首筋……洗っても落ちなかったら、お兄様が責任を取ってくださるの?」
「……っ!? 貴様、その声、やめろと言っているだろう……!」
ユリアンは顔を真っ赤にし、今度こそ完全に背を向けた。周囲の騎士たちが、その「兄妹のやり取り」に困惑した視線を送る中、リュカの唇には、公爵に向けたものとは違う、本物の、しかし毒のある微笑が浮かんでいた。

「ふふ……。……本当、余裕がないわね」
リュカは、ユリウスのマントの端を強く握りしめ、足早に寝室を後にした。
廊下を渡る夜風が、不浄な香りと共に、まとわりつく「ルシル」の残滓を奪い去っていく。

その背中は、どんなに着飾った淑女よりも凛としており、、完成された騎士の矜持に満ち溢れていた。

朝靄の邂逅

公爵邸の騒乱を背後に、夜明け前の冷たい空気が街を包み込んでいた。人通りの絶えた石畳に、コツ、コツと、場違いなヒールの音だけが硬く、足早に響く。

リュカは、ユリアンから借りた分厚い騎士のマントを深く羽織り、宿舎の裏門へと向かっていた。マントの裾からはサファイアブルーのシルクが覗き、歩くたびに脚にまとわりつく。

(……早く脱ぎたい。この窮屈なドレスは、やはり肌に合わない。鎧の重みの方が、よほど呼吸がしやすい。……首の痕は、隠せているだろうか。ユリアンの奴め、もっと丁寧に渡せなかったのか……)
マントの襟を立て、うつむき加減に歩くリュカ。その内心は、任務を完遂した安堵よりも、消えない公爵の感触への嫌悪と、この姿を仲間に見られることへの警戒心で占められていた。

宿舎の角を曲がった瞬間、見慣れた影がそこにあった。夜が明け切らぬ薄闇の中、礼拝堂へ朝の祈りにでも向かうのだろう、だった。

張り詰めていた緊張が、彼女の姿を見た瞬間にふっと緩んだ。公爵の汚らわしい感触、ユリアン卿との殺伐としたやり取り。それらすべてを塗り替えるような安堵が、一瞬だけ理性を上回る。

「……ユズリハ。お早いですね、朝の祈りでしょうか」
今の自分の姿を忘れ、いつもの、二人きりの時にしか見せない穏やかな声音で語りかけた。

「……え? ……ルチア? ルチアなのね……!」
は息を呑み、目の前の「絶世の美女」を凝視した。豪華なドレス、黄金の髪、そして無骨な騎士のマント。だが、彼女はそれらを透過し、その声の主を瞬時に見抜いた。

「っ!? ……いけません。その名で呼んではならないと、約束したはずです。どこで誰が聞き耳を立てているか分かりません。ここでは、リュカと呼んでください」
リュカは血の気が引くのを感じ、咄嗟に周囲を警戒しながら、低く理知的な声で厳しく制した。

だが、溢れる想いを止められないは、その制止を無視するように駆け寄り、リュカの首筋に手を回して、吸い寄せられるようにその唇を重ねた。
無事を確かめ、募る想いをぶつけるような、激しくも切実な接吻。
リュカもまた、マント越しに彼女の背を抱き寄せ、冷え切った身体に灯る熱を貪った。

だが、幸福な吐息が重なるその至近距離で、は気付いてしまった。
愛する人の香りの中に混じる、場違いで濃厚な、男の香油の匂い。
そして、指先が触れた首筋に残る、異様なほど生々しい他者の「熱」に。

「……ぁ。……っ、は……」
は弾かれたように唇を離し、震える指先でルチアの髪をそっと避けた。
そこには、薄明の中でもはっきりと分かるほど、赤々と、禍々しく残された「不浄な痕跡」があった。

「リュカ、その首……。……これ、は……何なの……?」
「……。……任務、です。それ以上は、言わせないでください」
(……そうだ、私は今、この格好で……)
己の姿を完全に思い出し、リュカは咄嗟にマントの襟を正して「汚れ」を隠した。
だが、の瞳からは既に大粒の涙が溢れ、その痕跡をなぞるように頬を伝い落ちていた。

「ユズリハ、私は大丈夫ですから。……さあ、祈りの時間でしょう。行かなければ」
リュカは努めて穏やかに、しかし拒絶の意思を込めて彼女の腕を解き、その横を通り過ぎていった。

薄明の空気に残されたのは、朝の静寂にそぐわない濃厚な香りと、走り去るリュカの足音だけ。
は自分の胸に手を当て、速くなった鼓動と、指先に残る「不浄な熱」を抱えたまま、白み始めた空の下に、ただ独り取り残された。

第10話:社交界の影 —— 偽装麗人の鉄拳(完)


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