——そこは、もはや「王国」ではなかった。
かつての穏やかな太陽は、天を衝くほどに鋭くそびえる結晶の尖塔群によって幾千にも断片化されている。街の至る所には、慈愛と断罪の象徴である『一輪の光花』を象った黄金の旗印が、不気味なほどに整然と、風を切り裂く音を立てて翻っていた。

祝祭の喧騒など、もはや遠い神話の産物でしかない。
静まり返った大気を支配するのは、幾重にも重なり合う無機質な詠唱。
それは魔力の共鳴が引き起こす重低音となって、大地から這い上がり、人々の足首を掴むように絶え間なく震わせているのだ。
そこは、ただ一人の少女を「神」へと押し上げた、冷徹なる聖皇国の完成形であった。
人影を排し、凍てつく静寂に満ちた大聖堂の最奥。氷のように青白い輝きを放つ玉座に、彼女は座していた。
かつての純真さを削ぎ落とし、絶対的な権威と凍てつくような威厳を纏った、成熟せる聖皇女ユズリハ。
豪華絢爛な装束の重みさえ感じさせぬその背筋は、もはや人としての揺らぎを一切持たない。
伏せられた長い睫毛の影、その瞳の奥に宿るのは、完成された信仰か、それとも救いようのない虚無か。
彼女が指先を僅かに動かすだけで、大聖堂を満たす空気が物理的な重圧へと変わり、跪く者たちの呼吸を静かに奪っていく。

その足元には、一人の騎士が深く跪いていた。
重厚な甲冑が石畳を叩き、静謐を乱す鈍い金属音が響く。
騎士は一言の弁明も、一息の震えも見せず、差し出されたユズリハの足先——その白皙の甲へと、魂のすべてを捧げるような深い口づけを落とした。
剥き出しの唇が孕む、生きるものとしての微かな熱。それを受け止める冷徹な神域の冷気。
その歪な温度差だけが、そこに在る異常なまでの忠誠心が、もはや引き返せぬ深淵にまで達していることを濃密に物語っていた。
「……時が来ました。汚れし者たちに、等しき引導を」

ユズリハが静かに、死を宣告するかのような冷徹な音を紡ぐ。
彼女は玉座の傍ら、影の中に控える人物へと視線を向け、ゆっくりと背後を振り返った。
そこに跪いていたのは、一分の乱れもない侍女服に身を包んだ女。その瞳に宿る眼光は、ただ冷たく、鋭利に研ぎ澄まされた刃そのものだ。
女は一瞬の迷いも見せず、その殺気を静かに、けれど確実に膨れ上がらせる。
「……はっ」
短く、抑揚を完全に排した応諾。女は深く頭を垂れ、その姿は一振りの影の剣と化した。

ユズリハが背後に控える闇のさらに奥を見据えた瞬間、世界は深紅のノイズに包まれ、無機質な詠唱が不協和音となって弾け飛んだ。
硝子越しの日常
「……っ、はぁ……」
薄暗い部屋の中に、自分の荒い呼吸だけが重く沈殿している。
瞼を持ち上げれば、そこにあるのは荒削りな石の天井ではなく、見慣れた白い壁紙。
窓の外からは、聖皇国の静謐な詠唱ではなく、遠くを走る車の走行音が聞こえていた。
「……跪く侍女の、あの足元。スカートから覗く暗器の冷たさ。あんな風に、冷たく見下ろす感じ……」
「うん、いいかも。次の話のネタに使えるかな」
夢の残響を、あえて創作のアイデアとして言葉に乗せて吐き出す。
そうでもしないと、指先に残る石造りの感触や、誰かに見下ろされていた時の戦慄に飲み込まれてしまいそうだったから。

鏡の前で、制服のリボンを整え、艶やかな深紫黒の髪にブラシを通す。
一階へ降りれば、静まり返った食卓に並ぶ朝食と、新聞を広げる父の横顔。
如月家の朝は、いつだって決まりきった静寂に支配されている。
予定調和なその空気は、ただそこにいるだけで私の呼吸を浅くさせた。
「行ってきます」
答えを期待しない挨拶を残し、楪は家を出た。
「おっはよー、楪っち! 今日も早いじゃん、マジ尊敬ー!」
駅の改札前、人混みの向こうから弾けるような声が飛んできた。
ブラウンの髪を流行のクリップで留めた陽菜が、最新のスマートフォンを片手に、眩しい笑顔で駆け寄ってくる。
彼女が近づくたびに、石の廊下の冷たさを上書きするように、甘い柔軟剤の匂いが鼻先を掠めた。

「おはよう、陽菜さん」
「もー、相変わらず丁寧なんだから。あ、見て見て! このクリップ、昨日原宿でゲットしたの。可愛くない?」
作り笑いを貼り付けた自分の瞳には、彼女の純粋な善意がどこか遠い世界の出来事のように映る。
共に歩く道すがら、アスファルトを叩く自分の足音が、まるで冷たい石造りの回廊を歩いているような、無機質な反響に聞こえていた。
カツカツ、と。黒板を叩くチョークの乾いた音。
窓から差し込む春の陽光が、宙を舞う小さな塵を白く照らし出している。
「……では、この公式を……」
教壇に立つ教師の声は、意味を持たないノイズとして耳を通り過ぎていった。
午前中の授業は、ただ窓の外を流れる雲を数えるためのBGMに過ぎない。

気づけば、ノートの隅に無意識のペン先が走っていた。
それは数学の解ではなく、重なり合う複雑な幾何学模様……魔法陣の断片。
その細部を描き込む指先の感覚だけが、今の彼女にとって唯一「本物」のように感じられた。
教科書をめくる隣の席の音さえ、何かの前兆のように聞こえては、現実の退屈さに引き戻される。
昼休み。喧騒に包まれる中庭や食堂を避け、楪は図書室の奥にある、窓際の席へと逃げ込んだ。
古い紙の匂いと、時が止まったような静寂。
鞄から愛用の万年筆を取り出し、原稿用紙の余白へと思いを叩きつける。
銀色の鎧を鳴らし、自分を連れ去ってくれる金髪の騎士の物語。

カリカリ、と。ペン先が紙を削る感触が、耳の奥で剣戟の音にすり替わる。
この物語を綴っている間だけ、自分を縛る制服も、如月家という名前も、すべてはただの幻影へと成り下がった。
インクが滲むのを見つめながら、私は密かに、誰もいない図書室で一息ついた。
※※※
放課後。帰りの支度を終え、席を立とうとした瞬間に差し出されたスマートフォンの液晶。
「ねえ、楪っち! 駅前にできたパンケーキのお店、行ってみない? 期間限定のベリーソースがマジで映えるんだって!」
そこに映る彩度の高い赤は、執筆で「あちら側」の濃度を深めていた楪の瞳には、ひどく安っぽく、異物のように浮き上がって見えた。
目の前で弾ける陽菜の笑顔さえ、今の彼女には硝子の向こう側の映像に過ぎない。

「ごめんなさい、今日もお稽古があるの。また今度誘ってね」
「えー、またー? 楪っち、マジでお嬢様だもんなぁ。じゃあ、また明日ね!」
陽菜の明るい落胆を背中で受け止めながら、楪は教室を後にした。
喧騒が残る廊下を通り、駅へと続く坂道を下る。
数歩進むごとに、陽菜たちが放っていた熱量が、まるで硝子の向こう側へと遠ざかっていく。
アスファルトを叩く自分の足音だけが、夕闇に沈み始めた街路に、少しだけ冷たく響いていた。
夕刻へと差し掛かる駅のホーム。
家路を急ぐ人々がまばらに増え始めた構内で、楪はただ一人、透明な壁の内側にいた。
中途半端に混み始めた電車の、ドア脇。
手に提げた鞄の重みが指先に食い込むのを感じながら、彼女は冷たい窓ガラスに額を預けた。
(……密室の、逃げ場のない圧迫感。望まない接触がもたらす、精神的な蹂躙)
ふと、小説家としての脳が周囲のノイズを「素材」として拾い上げ始める。
(もし、この静かな鉄の箱の中で、誰にも気づかれずに尊厳を削り取られるシチュエーションがあったとしたら……。あ、あえて『救い』のいない絶望的な状況を描くことで、後の救済を際立たせる……とか)
そこまで思考が及んだ瞬間、免疫のない彼女の脳裏に、具体的な「秘め事」のイメージが濁流のように流れ込んできた。
(背後から迫る、逃げられない体温。耳元で囁かれる、身の毛もよだつような淫らな……っ!)
「……っ!」
不意に顔が熱くなる。心臓の鼓動が早鐘を打ち、視界が白く明滅する。
落ち着かなくては、と思えば思うほど、彼女の耳の奥には抗いようのない「あの声」が響き始めた。
『——この鉄の棺桶の中で、彼女の声が届く場所はどこにもない。背後から忍び寄る湿った影が、その穢れなき肢体を今まさに蹂躙しようとしていることに、哀れな犠牲者はまだ気づいていなかった……』
(……ひゃっ!? また始まった! なんでこんなに大げさなの、しかも内容が破廉恥すぎるでしょ!)
頭の中に流れる無駄に重厚な妄想を振り払うように、楪は震える指先で制服のリボンタイを弄り始めた。

(……ああ、ダメ。逃げられない。この『鉄の箱』は、私を贄にするために用意された祭壇なんだわ……っ!)
窓ガラスに映る自分を見つめることすら、もはや苦痛だった。
現実の指先がリボンに触れるたび、脳内では「影の男」の太い指が、そのリボンを絞め上げ、彼女の細い喉を無慈悲に蹂躙していく。
『——逃げ惑う舌先が、冷酷な指によって強引に引きずり出される。少女の矜持は、公衆の面前で、音もなく崩れ去るのだ……』
(……ひっ、あ……っ! 嘘、本当に触られてるみたいに、熱くて、苦しい……!)
肺の中の空気が、妄想の湿度によってじっとりと重く変質していく。
窓に映る自分の顔は、もはや恐怖に怯える少女のものではない。抗えぬ快楽の毒に侵され、焦点の合わない瞳で虚空を見つめる、淫らな犠牲者のそれだった。
リボンを弄る指先が、次第に自分自身の喉を掻きむしるように強く食い込んでいく。
制服の襟元が乱れ、夕陽に照らされた彼女の横顔は、はっきりと分かるほど鮮やかな朱色に染まっている。
それは羞恥か、それとも自らが産み落とした物語への心酔か。
車内に流れるアナウンスさえも、今の彼女には、異世界の詠唱のようにしか聞こえていなかった。
旧家という名の檻 —— 噤(つぐ)みの儀式
駅のホームに降り立った瞬間、夕暮れの冷気が肌を刺し、電車内を支配していた熱狂を静かに削ぎ落としていく。
けれど、楪の頬の奥にはまだ、あの妄想のプロットが残した痺れが、執拗に張り付いたままだった。
一歩、また一歩と如月家の大門へ近づくにつれ、現代の喧騒は遠ざかり、砂利を踏みしめる音だけが規律を刻むメトロノームのように脳内に響き始める。
「ただいま戻りました」
重厚な玄関の引き戸を開け、楪は薄暗い土間に声を落とした。返ってくるのは、沈黙。そして、古い木材と線香が混ざり合った、この家独特の重苦しい空気。
家路を歩く間に少しずつ冷めていった彼女の身体は、この玄関に足を踏み入れた瞬間、完全なる「凍結」を迎えた。
自室に戻り、楪は日常の象徴であった制服を、儀式のように丁寧に脱ぎ捨てた。
現代の鎧を剥ぎ取り、下着さえ許されぬ無防備な肢体が、冬の夕暮れの冷気に晒される。

代わりに纏うのは、白一色の肌襦袢と、身体の自由を静かに奪っていく絹の重み。
自宅において、彼女が現代の利便性に身を委ねることは許されない。
鏡の前で帯をきつく締め上げれば、肺が浅い呼吸を強いられる。
その物理的な苦しさこそが、彼女にとっての如月家という名の檻のリアリティだった。
着替えを終えた楪は、そのまま「くれ縁」へと歩を進め、ひんやりとした板張りの床に腰を下ろした。
手入れの行き届いた庭園には、人の気配も、ましてやパンケーキのような色彩も存在しない。
(……静か。さっきまで、あんなに頭の中がうるさかったのに)
ぼーっと庭を眺める彼女の瞳から、妄想が、静かに、確実に削ぎ落とされていく。
今の彼女は、ただこの美しい檻の一部として、風景に溶け込むことしか許されない。

「楪、遅いですよ。……また、外の『毒』を吸い込んできたのですか?」
不意に背後から届いた、芯まで凍てつくような声。
如月家の実権を握る祖母の言葉には、一片の容赦もない拒絶が含まれていた。
「……申し訳ありません、お祖母様。今参ります」
楪は表情を消し、人形のような滑らかな動作で立ち上がった。
文机の奥に隠された、熱い妄想の詰まった原稿。それが、まるで遠い前世の記憶のように感じられた。
楪は、祖母の後に続いて茶室へと足を踏み入れた。
躙口(にじりぐち)を潜る際、身体を小さく折り畳む動作。
それは彼女にとって、外の世界で拾い上げた自由を切り捨て、如月家の形へと己を押し込めるための痛切な儀式だった。
茶室を満たすのは、冬の夕暮れ特有の、肺の奥まで凍てつくような静寂。
祖母は一言も発さず、正面に座り、ただ冷徹な審判の眼差しを楪の指先へと固定していた。
四畳半の小宇宙。釜から立ち上がる煮え湯の音――松風だけが、冷え切った大気を微かに震わせている。
楪は規律に従い、無機質な動作で茶道具を清めていく。
柄杓で湯を汲み、茶碗へと注ぐ。その刹那、立ち昇った熱い湯気が楪の頬を撫でた。
湿り気を帯びたその感触は、先ほどまで彼女を支配していた妄想を、より鮮明な、より侵略的な熱として呼び覚ましていく。
茶筅を振るう指先が、微かに強張る。
脳内では、背後に立つ影の男が彼女の手を冷酷に握り込み、強引にその所作を支配している悍ましい一節が書き綴られていった。
祖母の鋭い視線に晒されながら、内側では淫らな物語が加速する。
和服に締め付けられた胸の奥で、心臓の鼓動が規律を乱し、肌にはじっとりと嫌な汗が滲み始めていた。

(……ダメ、考えちゃダメ。今は、ただお点前を……っ!)
形を守ろうとすればするほど、彼女の精神は規律の裏側に潜む背徳感へと沈み込んでいく。
妄想の中で引き絞られる喉元、奪われる呼吸。
物語の深度が制御不能な限界を超えたその時、楪の指先は、茶碗の縁で耐え難い震えを露呈させた。
パシッ、と。
畳を叩く扇子の鋭い音が、彼女の脳内を侵食していた妄想を無慈悲に粉砕した。
「その所作、そしてその目……。不浄なものが混ざっていますね、楪」
祖母の氷のような宣告が、彼女の精神を現実の檻へと引きずり戻す。
如月家の掟がもたらす重圧と、自らが産み落とした物語に屈したという敗北感。
逃げ場のない沈黙が、冷え切った茶室へと再び深く降り積もっていった。
月下の反逆と、泡沫の決意
午後十時を過ぎ、如月家の長い一日を締めくくる儀式がようやく終わりを告げた。
静寂が降り積もり始めた浴室。湯船に身を沈めると、溢れ出した湯がタイルを叩く、くぐもった音が反響する。
祖母の視線に晒され続けていた肌が、温かな湯の中でようやくその強張りを解いていく。
和服の拘束から解放され、下着さえ許されなかった肢体が水に包まれる感触は、皮肉にも彼女に「生身の自分」を強く自覚させた。

「……はぁ」
白い吐息と共に、胸の奥に溜まっていた澱みを吐き出す。
水面を指先でなぞれば、波紋が静かに広がっていく。
(……私も、あんな風に普通に笑えるのかな。普通の女子高生みたいに)
クリアになった思考の海に、放課後の教室で陽菜が見せてくれたあの画面が、鮮やかな憧憬となって蘇る。
写真越しに見た眩しいほどに甘そうなパンケーキと、それを指差して笑う彼女の、屈託のない声。
それは、この家の厚い壁に遮られ、決して触れることのできない「外の世界」の象徴だった。
楪は、鏡の曇りを手で拭い、そこに映る自分を見つめた。
濡れた髪が白い肌に張り付き、その瞳にはかつてない微かな熱が宿っている。
「……明日、言ってみようかな。パンケーキ、行きたいって」
しきたりに背き、自ら檻の扉に手をかける決意。たったそれだけの言葉が、今の彼女には震えるほどに甘美な反逆の味を孕んでいた。
※※※
糊のきいた薄い浴衣を羽織り、自室へと戻る。
鏡の前で濡れた髪を乾かしている間も、その高揚感は収まるどころか熱を帯びて膨れ上がっていった。
鏡の中に映る、少しだけ上気した自分を見つめ、静かに、けれど強く自分に言い聞かせる。
「明日……言ってみよう」
胸の奥でかつてないほどに高鳴るその反抗心は、行き場を求めるようにして、彼女の指先を再び文机へと導いた。
明日の「光」を掴み取ろうとするエネルギーが、今はまだ、慣れ親しんだ執筆という「闇」を熱く燃え上がらせていく。

ペン先が紙を削る、尖った音だけが書斎に響く。
(……普通の女の子なら、こんなこと書かないよね)
自嘲気味な思考とは裏腹に、綴られる物語はより一層、湿度と熱を帯びていく。
背徳感に背中を押されるように、彼女の妄想は、静かに、けれど確実に深淵へと沈み込んでいった。
夜が深まり、世界の音が死に絶えた頃。
机上で震えたスマホの振動が、執筆の熱に浮かされていた彼女の意識を鋭く引き戻した。
夢遊病者のような手つきで、光を放つ画面を覗き込む。
そこに表示されたのは、明日という光を運んできた、陽菜からのメッセージだった。
『ねえねえ、やっぱり明日、いっしょにパンケーキ食べに行こうよ!』
その眩しい一文に、楪の息が止まった。
驚きに目を見開き、何度も、何度もその文字をなぞる。
「……すごい、陽菜……」
自分から踏み出そうとした勇気に、まるで陽菜が応えてくれたかのような、あまりにも幸福な偶然。
救われたという安堵が、胸の奥にたまっていた暗い澱みを、一瞬で温かな涙へと変えていく。
(……私、一人じゃなかったんだ。……嬉しい……っ)
陽菜の光に照らし出された自室は、さっきまでの冷え切った檻ではなく、明日への希望を育む、柔らかな繭のように感じられた。
楪は大切にスマホを抱きしめ、書きかけの原稿を、もう二度と必要のない過去として引き出しの奥へ仕舞った。
明日の放課後、真っ直ぐにこの家へ帰らない自分を想像する。鏡の前で、不器用ながらも精一杯の笑顔を作ってみる。
止まらない鼓動を感じながら、楪はいつになく穏やかな眠りへと誘われていった。
墜落する翼

始まりは、朝の光の中だった。
登校してすぐの騒がしい教室。楪は、机に鞄を置いたばかりの陽菜の元へ、吸い寄せられるように歩み寄った。
昨夜、お風呂の中で、そして鏡の前で何度も繰り返した言葉が、喉元までせり上がってくる。
「……陽菜さん」
「あ、楪っち! おはよう!」
屈託のない笑顔を向けられ、一瞬だけ呼吸が止まる。
けれど、彼女は逃げなかった。スカートの端をぎゅっと握りしめ、震える声を絞り出す。
「あのね、今日の放課後……例のパンケーキ、食べに行きたい」
陽菜の瞳が驚きに丸くなり、次の瞬間、世界が明るくなるような笑顔に変わった。
「えっ、本当に!? 嬉しい! もちろん行こうよ、約束だよ!」
その「約束」という言葉が、楪の胸にこれまでにない熱を灯した。
自分から踏み出した一歩が、拒絶されなかった。その事実だけで、今日という日が特別な祝祭のように感じられた。
それからの授業時間は、かつてないほどに長く、そして輝いていた。
黒板に並ぶ数式も、古文の退屈な一節も、すべてが「放課後」というゴールへ続くための階段に思える。
(……何から食べようかな。……陽菜さんは、何が美味しいって言ってたかな)
休み時間のたびに陽菜と目が合い、そのたびにお互い小さく頷き合う。
如月家の掟という檻の隙間から、初めて外の空気を吸い込んだような、ウキウキとした高揚感が彼女を満たしていた。
そして、ついに放課後のチャイムが鳴り響く。
帰り支度をする手さえも、喜びで少しだけ浮き立っていた。鞄を肩にかけ、陽菜と並んで教室を出る。
「楽しみだね!」「……うん、私も楽しみ!」
校門までの廊下。あと数十歩。その境界線を越えれば、私は「如月の跡取り」という仮面を脱ぎ捨てて、ただの少女になれる。
そう確信したその瞬間――。
ポケットの中で、スマホが死神の足音のように重苦しく震えた。
血の気が、一気に引いていくのが分かった。
震える指で取り出した画面には、家の者からの、感情を排した無機質な一文が表示されていた。
『本日の寄り道は許しません。重要なお客様がお見えです。跡取りとして同席しなさい。大奥様がお待ちです。校門前に車を回してあります。直ちに帰宅を』
「……っ」
足元から世界が崩れ去っていくような感覚。
どうして。どうして、今日に限って。
まるで、彼女の心の中に芽生えた小さな反逆を、最初からすべて見透かしていたかのようなタイミング。
校門の向こう、陽光を照り返すアスファルトの上に、家の黒塗りの車がこちらを監視するように待ち構えているのが見えた。

「……ごめん。……ごめんね、陽菜さん」
「え……? 楪っち、どうしたの?」
「行けなくなったの。……帰らなきゃ、いけないの」
謝罪の言葉と共に、楪は自ら「自由」に背を向けた。
一日中、大切に温めてきた希望が、たった数行の文字列によって完膚なきまでに握りつぶされる。
陽菜の困惑した顔を直視できず、楪は逃げるように車へと歩み寄る。
背後で校門が、巨大な檻の扉のように閉ざされる幻聴が響いた。喉を焼くような絶望が胸を突き上げ、視界が真っ暗に染まった――。
※※※
――意識が、急速に浮上していく。
目を開けると、そこにはあの見慣れた、古びて重苦しい如月家の天井はなかった。
視界に飛び込んできたのは、精緻な彫刻が施された高い天蓋と、柔らかな朝の陽光に透ける純白のカーテン。

「ユズリハ様、おはようございます! ……あ、あれ? ユズリハ様、なんだかすっごくうなされてませんでした? もしかして、怖い夢でも見ちゃいましたか?」
バッとカーテンを開ける元気な音と共に、ミーナが心配そうに顔を覗き込んできた。
「……おはよう、ミーナ。……ええ、少しね。前の世界にいた頃の、夢を見ていたの」
身体を起こすと、寝間着越しに伝わる上質なシーツの感触が、ここが「現実」であることを教えてくれる。
(……本当に、嫌な夢。あんなこと、思い出さなくていいのに)
胸の奥にこびりついた、あの日のパンケーキの「甘くない余韻」を振り払うように、ユズリハは小さく息を吐いた。
ドレッサーの前に座ると、ミーナが一生懸命な手つきで彼女の長い髪に櫛を通し始める。
「前の世界の夢……。やっぱり、ユズリハ様って元の世界に帰りたかったりします? 私たちは、ユズリハ様がいてくれないと絶対に困っちゃいますけど……でも、あっちにも大事な人とか、いっぱいいたんですよね?」
ミーナの無邪気な問いに、ユズリハの指先が膝の上で微かに震えた。
本来なら、迷わず「戻りたい」と答えていたはずだった。あの頃の彼女なら、ためらうことなくそう頷いていただろう。。
けれど、先ほどまで見ていた「檻」の記憶が、彼女の言葉を止める。
あそこに戻れば、またあの黒塗りの車が私を待っている。笑顔の練習が必要な、息の詰まる日々が。
(……ここなら、私は……)
ふと、脳裏にリュカの顔が浮かんだ。男装の騎士として振る舞う彼女の、不器用で、けれど真っ直ぐに自分を案じてくれる、あの微笑み。
それを自覚した瞬間、ユズリハの白い頬が、昨夜の湯上がりよりも鮮やかな朱色に染まっていく。

「あっ! ユズリハ様、今なに考えてました!? 顔がすっごく赤くなってますよ!」
櫛を止めたミーナが、鏡の中のユズリハを覗き込むようにして、ニマニマといたずらっぽく笑った。
「えっ……? な、なんでもないわよ!」
「えー、怪しいです! 今の赤くなり方は絶対に『なんでもない』顔じゃありませんよぉ。もしかして……リュカ様のこと思い出してたりしてー?」
「なっ……! ち、違うわ、そんなんじゃないわよ!」
慌てて顔を伏せるユズリハの耳までが、隠しきれずに赤く火照っている。
過去の重い鎖を一時だけ忘れさせるような、穏やかで賑やかな朝の空気。
『聖女』という役割に塗り潰されていく日々の影で、一人の少女としての鼓動が、そこには確かに刻まれていた。
第13話:目覚めれば、遠い日の残響(完)