『白』とは、まだ何も描かれていない、無垢という名の空白。
あるいは、すべてを塗りつぶし、奪い去った後の、絶望という名の沈黙。
十八歳の如月楪にとって、その放課後は、あまやかな空白に満ちていた。
彼女が愛した言葉も、彼女を守っていた白いリボンも。
異世界の『白』に飲み込まれ、その純白(しろ)が、残酷な意味を帯びていくことすら知る由もなく――。
日常の蒸発
窓の外から聞こえる野球部の掛け声や、遠くで響く吹奏楽の音。
そんな『ありふれた放課後』の断片は、厚いカーテンに遮られた文芸部室の静寂を、より一層際立たせていた。
西日に照らされた部室は、濃密な橙色の液体に浸されたかのような錯覚を覚える。
如月楪は、自身の呼吸音すら耳障りに感じるほどの静けさの中で、独り、机に向かっていた。
カリ……、カリカリ……。
愛用の万年筆が、上質な紙の繊維を優しく、時には鋭く引っ掻く。
そこには、彼女の内に秘めた『理想の愛』が、熱を帯びた独白となって綴られていた。
(……もし、運命の糸というものが存在するのなら。それはきっと、逃れられない呪いのようなものに違いないわ。抗おうとすればするほど、その糸は肌に食い込み、身体を……自由を、奪っていく……)
書いているうちに、自身の頬が微かに熱を帯びていく。
アメジスト色の瞳が、夕闇に溶け始めた文字をなぞる。
三つ編みハーフアップを結わえる「白いリボン」が、彼女のささやかな高揚に合わせて、微かに揺れた。

それは、彼女にとっての平穏の証。
受験勉強の合間に許された、自分だけの聖域。
だが、その安寧は、あまりにも唐突に終わりを告げる。
最初は、小さな羽虫の羽音のような、不快な高周波だった。
「……? エアコンの音かしら……」
顔を上げ、周囲を見渡した瞬間、彼女の心臓が大きく跳ねた。
古びた床の隙間から、青白い、病的なまでに冴え渡った光が噴き出していた。
その光は、まるで意思を持っているかのように蛇行し、幾何学的な魔法陣を部室全体に描き出していく。
橙色の夕陽は瞬く間に呑み込まれ、世界は、冷酷な『白』に塗り潰された。
「なに……っ、これ……!?」
万年筆を落とし、椅子を蹴り飛ばすように立ち上がろうとする。
だが、重力はその瞬間、彼女を見放した。
凄まじい魔力の奔流が、彼女の身体を床から浮き上がらせる。
それは浮遊感などという生易しいものではなく、見えない巨大な手に身体を掴み上げられ、強制的に連れ去られるような、暴力的な感覚だった。
「だれか……だれか、助けてっ!」
叫びは、物理的な破壊音を伴う光の轟音にかき消された。
次元が歪み、世界が反転する。
その狂乱の渦中で、楪は自身の身体に起きた『決定的な変異』に、絶望的な羞恥を覚える。
熱い。身体中が、焼けるように。
身体を包み込む光が、彼女の現代の服を――汚れ一つない白いブラウスを、慎ましいカーディガンを、そして膝丈のスカートを、容赦なく侵食し始めていた。
粒子となった布地が、彼女の柔らかな肌の上でさらさらと崩れ、蒸発していく。
それは剥ぎ取られるというよりも、彼女の存在の一部が無理やり奪われていくような、根源的な恐怖だった。

光に透かされ、半透明になった布地越しに、十八歳の無防備な輪郭が、冷たい虚空へと曝け出されていく。
日常という名の鎧が、一秒ごとに薄くなり、消えていく。
「いや……っ、見ないで……!」
誰に向かうでもない悲鳴を上げ、腕を交差させて胸を隠そうとするが、その腕を包む袖すらも、今はもう虹色の光の塵となって空へ溶けている。
――そして。
ぷつり、と何かが切れる音がした。
彼女の純潔の象徴であった「白いリボン」が、魔力に耐えかねて解け、彼女の深い紫を帯びた黒髪が、夜の帳のように宙で広がった。
日常との最後の繋がりを断たれた少女は、意識を失い、真っ白な奈落の底へと墜ちていった。
魂の曝露
頬を打つ、死者の肌のような冷たさで、楪は意識を浮上させた。

ひどく重い。身体が、まるで鉛に変わってしまったかのようだった。
指先を動かそうとするたびに、硬い石の感触が肌を刺す。そこは、部室の温かな木床ではない。湿り気を帯びた、磨き抜かれた黒大理石の床だった。
「……っ、ぁ……」
震える声で吐き出した吐息は、白く凍えていた。
ゆっくりと目を開く。だが、視界は涙と眩暈(めまい)でぼやけ、焦点が定まらない。
ただ、理解できたのは――自分が今、圧倒的な威圧感の渦中に放り出されているということだけだ。
頭上から降り注ぐのは、数え切れないほどの『視線』。好奇、嫌悪、そして値踏みするような冷徹な眼差しが、這いつくばる彼女の背中に突き刺さる。
そして何より、彼女を絶望させたのは、肌を撫でる空気の質感だった。
無い。自分を守ってくれていた、あの柔らかなブラウスの感触も、ネイビーのブレザーの温もりも。
日常の残滓(ざんし)を一切許さぬ、冷徹な魔力の再構築。肌を包んでいるのは、かつての制服などではなく、薄氷のように透け、頼りなく肌に吸い付く白銀の薄衣(うすぎぬ)だけ。
自分を定義していた白いリボンさえもどこかへ消え、艶やかな、深い紫がかった黒髪が、結び目を失って惨めに乱れ、冷たい床に広がっている。
あまりにも薄く、秘部を覆うことすら危ういその布地は、彼女の意志とは無関係に、その肢体を『神への供物』として完全に再定義していた。
十八歳の少女にとって、それは名前も知らない神に捧げられるためにパッケージされたも同然の、逃げ場のない辱めだった。
「……これが、今回の『継ぎの器(つぎのうつわ)』か」
頭上から、地鳴りのような低い声が響いた。
楪は恐怖に身を竦ませ、顔を上げた。そこには、巨大な剣を杖のように突き立て、玉座に鎮座する鉄の王――ゼノス・フォン・アルテマがいた。
王の瞳に映っているのは、一個の人間としての『彼女』ではない。
ただ、不備なく召喚されたかを確認すべき『物(ぶつ)』。そんな冷徹な検品の眼差しが、這いつくばる彼女を無機質に射抜く。
「その魂の素性を暴け。真実の鏡(鑑定具)を」
王の合図と共に、不気味な黒水晶が彼女の頭上へと掲げられた。
直後、静寂を切り裂くように、虚空へ眩い光の文字が浮かび上がる。

それは、この世界の言語で刻まれた、残酷なまでの『私』の証明。
『魂の銘(たましいのめい):如月 楪』
『位階:十八。異界の平民』
『特性:余白の聖性、潜在的感度、高純度魔力伝導体……』
「あ……あぁ……っ」
楪は、激しい羞恥に顔を伏せた。
自分の名前。年齢。そして、自分ですら言葉にしたことのない肉体の『潜在的な感度』までもが、見知らぬ男たちの前で、逃げ場のない文字として宙に曝け出されている。
裸にされる以上の凌辱だった。魂の奥底までを土足で踏み荒らされ、その『価値』を公にされる恐怖。アメジスト色の瞳が、屈辱に濡れて小刻みに震える。
「ふむ。銘を見る限り、器としての素質は先代以上か。だが……」
王の視線が、床に這いつくばる楪の全身を、検品するかのように冷たく走った。薄い布地から曝(さら)け出された白い肌のどこにも、求める『証』は見当たらない。
「見ての通り、肝心の『神の刻印』が見当たらぬ。これでは奇跡を顕現させることなどできんぞ。ただの、壊れやすい肉の器に過ぎぬ」
嘲笑のような騎士たちの囁きが、広間に満ちる。
楪はただ、冷たい大理石に爪を立て、自らの無力さを呪うことしかできなかった。
その時。
コツ、コツ……と、重厚なドレスの裾を翻し、一人の女性が近づいてきた。
黄金の髪を高く結い、真珠色の瞳で楪を見下ろす――王妃プリシラ。
彼女は、汚らわしいものを見るような、それでいて愛おしい玩具を見つけたような歪んだ笑みを浮かべると、楪の震える顎を、冷たい指先で強引に持ち上げた。
「お可哀想に。迷い子の小鳥さん……」
至近距離で、王妃の芳醇な、けれど毒を含んだ香りが鼻腔を突く。
王妃は、楪の耳元に唇を寄せ、周囲には聞こえないほど小さな、けれど明瞭な声で囁いた。
「……魂の銘が示す『適性』が、本当にこの肉体に宿っているのか……。それは、言葉だけでは測りきれませんわね?」
王妃の真珠色の瞳に、どす黒い悦楽の火が灯る。
その次に続く言葉を、楪の心臓が、本能的な恐怖で察知した瞬間――。
世界は再び、容赦のない暗転を迎えた。
白銀の回廊

王妃プリシラの唇が、弧を描いて吊り上がった。
彼女は真珠色の瞳に得体の知れない愉悦を湛えると、背後に控えていた重装の兵士たちへ向けて、音もなく、顎(あご)で小さく合図を送った。
「……っ!」
鉄の軋(きし)む音が近づく。
逃げ場のない黒大理石の上、楪は本能的な恐怖に身を竦ませ、自らの細い肩を抱いた。
だが、その震えを嘲笑うかのように、兵士たちの無機質な手が、無防備な彼女の腕へと伸ばされ――。
※※※
不意に、視界が白く弾けた。
「――聖女様、こちらへ。足元にお気をつけて」
鼓膜を叩いたのは、先ほどまでの重圧とは正反対の、鈴を転がすような淑やかな女性の声だった。
「え……あ……?」

楪は、意識の混濁を振り払うように瞬きを繰り返した。
気づけば、彼女は広大な回廊を歩かされていた。天井は高く、純白の石材で組まれたアーチからは、清冽な昼下がりの陽光が惜しみなく注いでいる。
先ほどまでの暗く冷たい謁見の間の記憶が、まるで悪い夢だったかのように遠い。
だが、自分の肌を撫でる空気は、確かにあの部室の夕暮れとは異なっていた。
目の前を歩くのは、背筋を正し、寸分の乱れもない所作で歩む三人の侍女たち。
彼女たちは、楪が足を止めるたびに恭しく頭を下げ、まるで高価な硝子細工を扱うかのような、過剰なまでの敬意を払っていた。
(……なにが、起きたの?)
自分がどうやってあの広間を出たのか、その記憶だけが、霧に包まれたように判然としない。
ただ、身体の芯に残る奇妙な強張りと、喉の奥にこびりついた乾いた熱が、空白の時間の存在を告げている。
彼女の肩には、いつの間にか厚手の、けれど絹のように滑らかな聖女の外套(マント)が掛けられていた。それは、羞恥を煽るほど薄い『薄氷の聖衣』を覆い隠し、彼女を『聖なる存在』としてパッケージし直す、新たな檻のようでもあった。
「聖女様、こちらへ。まずはその御身を清めさせていただきます。
召喚の儀で付着した『穢れ』を落とすことも、大切な務めにございますれば」
侍女たちの恭しくも逆らえぬ手に引かれ、楪は白大理石の巨大な浴場へと連れ込まれた。
高く組まれた天井からは淡い天光が蒸気に滲んで降り注ぎ、空間全体が夢心地のような乳白色に包まれている。
「あ……っ、や……、そこ、は……っ!」

数人の侍女たちに囲まれ、柔らかな海綿が肌を撫でるたび、楪の口から熱を帯びた声が漏れる。
ただ身体を洗われているだけだというのに、指先が触れる場所すべてが、まるで焼けた鉄を押し当てられたかのように過敏に反応してしまうのだ。
うなじ、背中、太腿の内側。
侍女たちの指が掠めるたびに、楪の背中が小さく跳ね、爪先が丸まる。
(おかしいわ……どうして、こんなに……っ)
それは、初めての経験への緊張だけではない。身体の奥底に、自分でも正体のわからない『疼(うず)き』が残っているかのような……。
侍女たちは、楪のその過剰な反応を気にする様子もなく、ただ淡々と芳醇な香油を馴染ませていく。彼女たちの無機質な瞳には、楪の苦悶はただの『聖女としての霊的反応』としてしか映っていないようだった。

たっぷりと湯を湛えた浴槽で、身体の芯まで熱を孕まされた後。
ふらつく足取りで脱衣所へと導かれた楪の肩に、厚手の、けれど絹のように滑らかな儀礼用の白銀外套(マント)が掛けられた。
重厚なブローチで固定されたそのマントは、羞恥を煽るほど薄い『薄氷の聖衣』を覆い隠し、彼女を『高貴なる聖女』としてパッケージし直す、新たな檻のようでもあった。
フードのない装束は、湯上がりで火照りきった彼女の顔を、隠すことを許さない。
「もうすぐ、第一王女・フィオナ様の居室にございます。
どうかご安心を。あの方は、この国で最も慈悲深きお方ですので」
侍女の言葉に、楪は力なく頷くことしかできなかった。
日常を失い、魂を曝け出され、そして空白の時間に刻まれた『疼き』を湯殿でさらに暴かれた身体を引きずって。
少女は、この世界で唯一の救いとなるはずの、王女の扉へと導かれていく――。
白の導き手
重厚な彫刻が施された白檀(びゃくだん)の扉が、音もなく左右に開かれた。
溢れ出したのは、香油の残り香を掻き消すような、清涼な百合の花の香りと、眩いばかりの天光だった。
「……っ」
楪は、侍女に支えられながら一歩、その部屋へと踏み出した。
厚手の儀礼外套が、歩くたびに彼女の火照った肌を優しく、けれど確実に締め付ける。
足元はおぼつかなく、視界もまだ湯あたりのせいで微かに揺れていた。
けれど、その揺れる視界の先に、彼女は『救い』を見つけた。
「ようこそ、異界の聖女様。……いいえ、『ユズリハ・キサラギ』さん」

部屋の中央、窓からの陽光を背負って立っていたのは、一人の女性だった。
月光に桜の花びらを溶かし込んだような、淡く、柔らかなピンクシルバーの髪。
その奥でエメラルドブルーの瞳が、真珠のように穏やかな輝きを湛えている。
彼女が纏う純白と淡い桃色のドレスは、この世界の汚れを一切拒絶しているかのように神々しい。
第一王女、フィオナ・フォン・アルテマ。
「急な召喚に、さぞ驚かれたことでしょう。
王宮の者たちが無作法を働かなかったか、わたくし、とても心配しておりましたの」
フィオナは、浮世離れした美しさを湛えた顔に、母親のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、ゆっくりと楪の元へ歩み寄った。
そして、震える楪の細い手を、自身の温かな手で優しく包み込む。
「……あ……」
人の手の温もり。
それは、先ほどまでの冷たい石の床や、侍女たちの無機質な奉仕とは決定的に異なる、血の通った温かさだった。
楪の瞳から、こらえていた涙がひとしずく、その白い手の上にこぼれ落ちる。
「大丈夫ですよ、楪さん。……この国、アルテマにおいて、あなたは最も貴く、守られるべき存在なのですから。
これから始まるあなたの務めも、わたくしが全てお支えいたします。信じていただけますか?」
フィオナの瞳の奥に、淀みは見当たらない。
その言葉を、楪は渇いた砂が水を吸うように、全身で受け入れてしまった。
日常を奪われ、魂を暴かれ、辱めに等しい浄化を経て、ようやく辿り着いた『白の聖域』。
少女は、不慣れな魔力の奔流がもたらす『魂の強張(こわば)り』さえも、この王女の慈愛があればいつか溶けていくと――そう、縋るように信じることに決めたのだ。
だが、窓の外で鳴り響く祝祭の鐘の音は、 新たな『聖女』という名の宿命が、救済という名の過酷な祭壇へ捧げられたことを、高らかに告げているだけだった。
第1話:『白の召喚と、余白の儀式』 ――完