窓から差し込む午後の陽光が、卓上の白磁のカップを白く焼き付けていた。
楪は立ち上る紅茶の香りを静かに吸い込み、ようやく人心地ついたように息を吐く。
「……すごくいい香り。ありがとう、ミーナ」
「えへへ、喜んでもらえて良かったです、ユズリハ様!」
ミーナは一生懸命な手つきでティーポットを置くと、傍らで彫像のように直立していた騎士へと視線を向けた。
「リュカ様もいかがですか? ちょうど、王都で一番の商会から届いたばかりの、新作の茶葉なんです。すごく珍しい香りがするんですよ。一緒に一休みしませんか?」

「……いや、私は職務中だ。護衛の任にある者が、茶を嗜むなど……不適切だ」
リュカは表情ひとつ変えず、堅物ぶりを貫こうとする。その手には、昨日の浄化に関する報告書の束が握られていた。
だが、楪はそっとカップを置き、彼を嗜めるように見上げた。
「リュカ様。あなたがそのように強張っていらっしゃると、私も落ち着いてお茶をいただけません。……ね、一杯だけ。お願いします」
静かな、けれど拒絶を許さないほど真っ直ぐな、『お願い』。
リュカの指先が、報告書の上で微かに震えた。彼は一度だけ深く息を吐くと、降参したように書類を脇の机に置いた。
「……聖女様がそこまで仰るなら」
ミーナが即座に差し出したカップを、リュカが受け取る。白皙の指先が白磁の持ち手に添えられた。その指は騎士としての修練を感じさせる節の強さを持ちながらも、驚くほど繊細な形をしており、無骨な軍装との対比は思わず見惚れるような絵になっていた。
その様子を満足げに眺めていたミーナが、悪戯っぽく瞳を光らせる。
「ところで聖女様。浄化から戻られて以来、ずっとお城に詰め切りですよね? 王都の市場では、今朝届いたばかりの異国の果実や、珍しい織物で賑わっているそうですよ」
「そうなの? 楽しそうね」
「ええ。たまには城下町の空気でも吸って、リフレッシュされてはいかがですか? ……幸い、ここには腕の確かな護衛様もいらっしゃることですし」
ミーナはリュカの顔を逃さず見据え、追い打ちをかけるように微笑んだ。
「リュカ様。聖女様の『静養』も護衛の任務のうちですよね? お二人でお忍びの視察にでも行かれてはどうでしょう?」
リュカは紅茶を飲み下す寸前で、わずかに喉を鳴らした。
護衛としての正論と、ミーナが投げかけた『気を利かせた提案』の間で、白銀の騎士は一瞬だけ、戸惑いを隠せない表情を浮かべたのだった。
鏡の中の少女、扉の向こうの守護者
姿見の前で、ミーナが最後のリボンを整える手に力を込めた。薄紫のリネンワンピースが、窓からの光を受けて柔らかに波打っている。
「……はい、できました! 聖女様、見てください。本当にとっても、可愛いですっ!」
ミーナが弾んだ声で言い、楪の肩越しに鏡を覗き込んだ。そこには、いつもの清廉な聖衣ではなく、どこか幼さを残した一人の少女が立っていた。
「ありがとう、ミーナ。でも……本当に大丈夫かしら。何だか、自分じゃないみたいで少し落ち着かないわ」
「そんなことありません! 聖女様のお肌の色に、この薄紫がぴったりなんです。それに、この大きな麦わら帽子……きっとリュカ様も驚いて、目を回しちゃうんじゃないでしょうか」
ミーナが悪戯っぽく笑いながら、楪の頭に丁寧に帽子を載せた。楪は少しだけ赤くなった頬を隠すように帽子の縁を抑え、深呼吸を一つした。
「……それじゃあ、行ってくるわね」
ミーナに見送られ、楪は静かに部屋の扉を開けた。
廊下で待っていたのは、いつもの軍装を脱ぎ捨てた、見慣れない装いの『彼』だった。
「……リュカ、様?」

思わず漏れた声は、自分でも驚くほど上気していた。
そこに立っていたのは、王宮の回廊を威風堂々と歩く騎士ではない。
ゆったりとした上質なクリーム色のチュニックに、深い海を思わせる濃紺のベスト。細身のパンツが、彼のすらりとした脚のラインを強調している。
金属の冷たさと重厚さが消えたことで、彼の持つ『貴公子』としての本質が、剥き出しのままそこに在った。
光を吸い込むような金髪は、軍帽に抑えられることなく風に遊ばれ、普段は隠されている首筋のしなやかなラインを露わにしている。
「……何か、おかしな点がありましたか?」
リュカは至って冷静な顔で、手元の袖口を整えながら問いかけてきた。
おかしいどころではない。
鎧という殻を脱ぎ捨てた彼は、どこか壊れ物を思わせるほどに美しく、それでいて、やはり隠しようのない鋭い気品を漂わせている。
「いえ、その……とっても、よく似合っています。いつもの姿も素敵ですけれど、今日のリュカ様は……その、とても新鮮で」
楪は顔が熱くなるのを必死に抑え、手元の麦わら帽子の縁を強く握りしめた。
一人の少女として選んだこの装いも、彼と並ぶにはあまりに不釣り合いではないかと不安になるほど、今日のリュカは眩しく見えた。
「ありがとうございます。聖女様も……」
リュカの視線が、楪の首元からワンピースの裾へと静かに滑った。
ほんの一瞬、その瞳に射し込んだのは、護衛としての鋭さではない。
午後の陽光のような、どこか慈しむような熱。
「よく、お似合いです。一人の少女としての貴女を守れることを、誇りに思います」
それは、一点の曇りもない誠実な笑顔だった。
騎士としての義務感から来る言葉だと分かっていても、楪の心拍は、抗いようのない速さで刻まれていった。
人波の旋風、繋がれた指先
王都の市場は、城内の静寂とは対極にある熱気に満ちていた。
石畳の上を激しく行き交う馬車の音、商人たちの威勢の良い掛け声、そして異国のスパイスや焼きたてのパンが混じり合った濃厚な香りが、初夏の風に乗って鼻腔をくすぐる。
「……すごく、賑やかですね」
「ええ。ここは南方の特産品が集まるエリアです。あの赤い果実は少し酸味がありますが、疲れを癒やす効果があると言われています。……一つ、いかがですか?」
先導するリュカが足を止め、路店に並ぶ琥珀色の果実を見つめた。
彼が買い求めてくれた、蜂蜜に漬けられた小さな果実の串。それを受け取る際、指先が微かに触れそうになり、楪は慌てて視線を果実へと落とした。
「ありがとうございます、リュカ様。……いただきますね」

一口頬張ると、爽やかな甘みが弾けるように口いっぱいに広がる。
王城で供される、宝石のように飾り立てられた贅沢なデザートとは違う、どこか素朴で、手作りの温かみを感じさせる味。
「……ふふ、すごく美味しいです。なんだか、懐かしい味がします」
「懐かしい……? 貴女の世界にも、同じような果実があるのですか」
リュカが不思議そうに首を傾げる。その表情は、いつもの厳しい騎士の仮面を剥ぎ取った、年相応の青年のものだった。
「いえ、果実そのものは違うのですけれど……。こうして外で甘いものを食べて歩くのって、元の世界で友達と放課後に寄り道した時の感覚に、よく似ているんです」
「ホウカゴ、ですか……」
「ええ。学校が終わって、みんなで今日あったことを話しながら、寄り道して帰るんです。……あ、リュカ様には変なお話に聞こえましたよね。すみません」
「……いえ。その、貴女が今、聖女としてではなく、ただの少女のように笑っていらっしゃるのが……。その、……良いことだと思います」
リュカは少しだけきまり悪そうに視線を逸らしたが、その言葉には、楪を丸ごと包み込むような優しさが宿っていた。
異世界に来てから、ずっと『聖女』として丁重に扱われてきた。けれど今は、自分がただの女の子だった頃の感覚を、彼が肯定してくれている。その実感が、どんな贅沢な献上品よりも楪の心を熱くさせた。
隣の露店には、青い硝子の髪飾りや、繊細な銀細工が陽光を反射してきらきらと輝いている。
楪はふと足を止め、一つの露店の隅に並べられた小さな花の形をした耳飾りに見入ってしまった。
その中央に埋め込まれた小さな石の色が、楪の心を捉えた。
(……深く、澄み渡った、サファイアブルー)
それは、陽光の下で見る、リュカの瞳の色と驚くほど似ていた。
城の宝石のような威圧感はない。ただ、どこまでも深く、誠実で、守護を約束するような蒼。
「お気に召しましたか」
「いえ、その……とっても綺麗だなと思って。でも、私には少し派手かもしれませんね」
「そんなことはありません。貴女の髪の色によく映えるはずだ」
淀みのないリュカの言葉に、心臓が跳ねる。
楪はもう一度だけその蒼い石を見つめると、小さく微笑んで、彼に付いて歩き出した。
だが、日が傾き始めると、市場の空気は一変した。
家路を急ぐ人々や、夜の賑わいを見越して集まってきた群衆が四方八方から押し寄せ、ゆったりとしていた通りは瞬く間に人の海へと姿を変えていく。
「……すごい、人ですね」
思わず漏れた声は、周囲の喧騒にかき消されそうになった。
つい先ほどまでの幸福な余韻が、荒々しい人波にさらわれていく。
一歩前を行くリュカの背中が、幾重にも重なる見知らぬ人影の向こうへ遠ざかっていく。
(……あ。リュカ様……!)

視界から彼のクリーム色の背中が消えかけ、楪は必死に手を伸ばした。
掴んだのは、彼の濃紺のベストの裾。
指先に伝わる生地の確かな感触に、激しい鼓動と共に、泣き出しそうなほどの安堵が広がった。
リュカが足を止めた。
彼はゆっくりと振り返り、自分の服を掴んでいる楪の小さな指先に視線を落とす。
「ご、ごめんなさい。つい……」
「……いえ。慣れない場所で不安にさせてしまいました。私の配慮が足りませんでしたね」
リュカは静かに首を振り、迷いのない所作で、柔らかな掌を差し出した。
「はぐれてはいけません。……失礼、致します」
差し出された彼の手を、楪はおずおずと握り返した。
騎士としての修練で鍛えられたその掌は、驚くほど大きく、そして熱かった。
指先が重なり、互いの体温が混じり合う。
人混みの喧騒が、急に遠い世界の出来事のように感じられた。
「絶対に、離さないでください」
真っ直ぐに前を見据えたまま、リュカが短く言った。
握り込まれた手の熱が、楪の頬へと静かに伝染していく。
それは護衛としての義務を越えた、確かな熱量を帯びていた。
夕景の広場、蒼い約束
市場の喧騒を抜け、石造りの長い階段を登りきると、そこには王都を一望できる高台の広場が広がっていた。
地平線へと沈みゆく太陽が、街並みを燃えるような黄金色に染め上げ、家々の窓には夜を待つ明かりがぽつりぽつりと灯り始めている。
「……わあ、綺麗」
絶景を前に、楪は思わず柵の方へと駆け寄った。
城のバルコニーから眺める景色とは違い、ここでは街の息遣いがすぐそばに感じられる。
心地よい夕風が広場を吹き抜け、薄紫のワンピースの裾を軽やかに揺らした。
「聖女様、あまり身を乗り出しすぎると危ないですよ」

一歩後ろで控えていたリュカが、静かな声で注意を促す。
楪がふと振り返ると、そこには夕陽を背負って立つ彼の姿があった。
クリーム色のチュニックがオレンジ色に染まり、風に遊ばれる金髪が細かな光の粒を纏っている。彫刻のように整った彼の横顔は、いつもよりずっと柔らかく、それでいて隠しようのない気品に満ちていた。
(……かっこいい。いつもの鎧姿も素敵だけど、今はなんだか、もっと別の……)
見惚れていた。護衛と聖女という関係を忘れ、ただ一人の少女として、その美しさに目を奪われていた。
だが、リュカがふと視線をこちらへ向け、二人の瞳が真っ直ぐに重なる。
「……私の顔に、何か付いていますか?」
「え、あ……いえ! 何でもありません。ただ、夕陽がすごく眩しくて……そうです、街の灯りがキラキラしていて、本当に素敵だなって思ったんです!」
楪は慌てて視線を逸らし、目の前の街並みを指差して誤魔化した。
(……どうしよう。心臓がうるさい。変な顔、してなかったかな……)
急激に熱くなる頬を、冷たい夕風が撫でていく。
そんな気まずくも甘い沈黙を、一際強い旋風が切り裂いた。
「あっ……!」

ミーナが丁寧に整えてくれた麦わら帽子が、ふわりと宙に舞う。
楪が咄嗟に手を伸ばしたが、帽子は悪戯な風に乗って、夕陽の向こうへと逃げていく。
――だが、白銀の影が、風よりも速く動いた。
リュカが音もなく地を蹴り、鮮やかな跳躍で宙を舞う帽子を、その大きな掌で確実に捉える。
着地した彼の背中に残光が当たり、そのシルエットが鮮烈に脳裏に焼き付いた。
リュカが静かに歩み寄り、拾い上げた帽子を差し出した。
だが、彼はすぐには手放さず、楪の目の前で足を止める。
至近距離で見つめ合う形になり、楪は思わず息を呑んだ。
「……どうぞ。少し、髪が乱れてしまいましたね」
リュカが帽子を楪の頭に載せ直し、乱れた前髪を避けるように、その指先が帽子の縁をゆっくりと整える。
ほんの数センチ先に、彼の指先の温度がある。
(……近い。どうしよう、リュカ様の瞳、市場で見た宝石よりもずっと……)
その不器用で優しい手つきに、楪の思考は白く染まりそうになる。

帽子を整え終えたリュカの手が、名残惜しそうに離れていく。
今、この瞬間を逃したら、もう二度と言えないかもしれない。
楪は震える手をそっとポケットに滑り込ませた。中にある、小さな紙包みの感触が、彼女の背中を静かに押す。
「……あの、リュカ様。受け取っていただきたいものがあるんです」
「……私に、ですか?」
驚きに目を見開くリュカの前に、楪は顔を上げられないまま、小さな包みを両手で差し出した。
指先がわずかに震え、包みを包む紙がかすかな音を立てる。
「市場で見つけた時に……リュカ様の瞳の色に、とても似ているなって思ったんです。……今日一日、私のわがままに付き合って、守ってくださったお礼です。受け取って……くださいますか?」
広場を渡る風の音だけが、二人の間に流れる。
リュカは言葉を失ったようにその包みを受け取り、中から現れたサファイアブルーの石を、慈しむように見つめた。
「……私に、このような温かな贈り物を。ただの護衛にすぎない私に……」
「ただの護衛だなんて、言わないでください。……私にとっては、その、……大切な方なんですから」
最後の一句は、消え入りそうなほど小さな呟きだった。
けれど、リュカはそれを逃さなかった。
彼はサファイアを強く握りしめると、もう一度、楪の肩に手を置いた。
「大事にいたします。……生涯、私の誇りとして」
特別な一日の終わりを告げる空には、サファイアブルーの輝きを真似るように、一番星が静かに瞬き始めていた。
第5話:蒼の休日、触れ合う指先(完)