王都の路地裏に残る、焼きたてのパンの香りと、遠ざかる子供たちの笑い声。
昨日、リュカと共に歩いた石畳の感触は、今も楪(ゆずりは)の足裏に、確かな安らぎの記憶として残っていた。
聖女としての重圧から解き放たれ、ただの少女として市井(しせい)の賑わいに身を浸した数時間。
言葉にせずとも伝わってきたリュカの不器用な気遣いは、異邦の地で孤独に震える彼女の心を、静かに、けれど深く癒やしてくれた。
けれど、朝の訪れと共に、夢のような時間は終わりを告げる。
行き先は、聖域とされる霊峰。
表向きは静養、けれどその実は、穢れの源流を絶つための隠密行。
昨日、隣を歩いたリュカの横顔を心の灯火にして。
楪は、冷たい霧の立ち込める新たな旅路へと、そっと足を踏み出した。
黎明の密命
王妃プリシラの執務室は、午後の柔らかな陽光が差し込んでいるにもかかわらず、どこか肌寒さを感じさせる静寂に包まれていた。
豪奢な机の向こうに座る王妃は、届けられたばかりの報告書に視線を落としたまま、冷徹な響きを湛えた澄んだ声で告げた。
「……霊峰の穢れが、無視できない段階に入っています。聖女様、そして私の愛しいフィオナ。貴女たちに、この地の浄化を命じます」
その言葉に、フィオナが弾かれたように顔を上げた。一点の曇りもないはずの彼女の瞳が、今は驚きと不安に揺れている。
「……私が、ですか? お母様、私は聖女様のような力は持っておりません。そのような危険な場所に、何の力もない私が行っても、お役に立てるとは思えませんわ……」

震える声で問い返すフィオナに、王妃は顔を上げ、花が綻ぶような慈愛に満ちた微笑みを向けた。彼女は席を立ち、不安に震える娘の元へ歩み寄ると、その細い肩を優しく抱き寄せた。
「何を言うのです、フィオナ。貴女は私の、そしてこの国の誇りなのですよ。あの聖域の最深部にある封印は、我が王家の血筋にのみ反応するように作られているのです。貴女が傍らで祈りを捧げ、結界を解いてくれなければ、聖女様の浄化の光も深部までは届かない……。この国を救えるのは、貴女しかいないのです」
「私しか……できないこと。それが、私の『血』に課せられた役目なのですね」
「ええ。貴女なら、立派に務めを果たしてくれると信じていますよ」
母の温かな手のひらの感触と、その全幅の信頼を湛えた言葉。フィオナは唇を噛み締めながらも、母への敬愛を瞳に宿し、深く頷いた。
その美しくも残酷な光景を横で聞きながら、楪は心臓の奥が冷たく凍りつくような感覚に襲われていた。
(……優しいのに。あんなに優しそうに笑っているのに、どうしてこんなに怖いの……?)
王妃の言葉は、どこまでも慈しみに満ちている。けれどそれは、フィオナが拒むことのできない『期待』という名の鎖で、彼女を逃げ場のない場所へ縛り付けているように見えた。
自分は『聖女』、フィオナ様は『王家の鍵』。
震えそうになる指先を重ね、楪はフィオナの決意に寄り添うように、ようやく言葉を絞り出した。
「……畏まりました、王妃様。フィオナ様と共に、……精一杯、務めさせていただきます」
「リュカ。今回は『隠密』での行軍となります。大々的に兵を動かせば、ここに聖女様と王女がいます、襲ってくださいと敵に教えるようなものですからね。大規模な護衛は、かえって彼女たちの命を危険にさらすことになります」
「……御意に。少数での隠密行こそ、不測の事態を避ける最善の策かと存じます」
リュカが深く膝を突き、澱みのない声で応じる。
その理にかなった言葉さえ、今の楪には『自分たちの命が懸かっている』という重い現実を強調する響きにしか聞こえなかった。
白銀の守りと、黄金の午後
出発を明日に控え、王城の中庭は荷積みを行う従僕たちの足音と、物資を運び込む馬車の車輪の音で埋め尽くされていた。
アンナは厳しい表情で目録を照合し、ミーナは積み上げられた保存食の木箱に「これは聖女様用です、丁寧に!」と人夫たちへ細かな指示を飛ばしている。
そんな王宮の『公』の活気から、わずかに外れた回廊の陰。
王妃プリシラは、立ち去り際に傍らのフィオナの手をそっと取り、小さな革の包みを預けた。
人夫たちの声や荷箱を叩く音が遠く響く中、その一角だけが切り取られたような静寂に包まれる。
「フィオナ。これをお持ちなさい。王家に伝わる古い守りです。中には指輪が入っていますが、いざという時の気休めにはなるでしょう。お忍びの旅ですから、これくらいの贅沢は許されますよ」

「……お母様。ありがとうございます、大切にいたしますわ」
受け取った包みからは、確かな金属の重みが伝わってきた。
王妃は「聖女様をしっかり支えてあげてね」と慈しみ深く微笑むと、駆け寄ってきた侍従の案内で、優雅に奥の執務室へと戻っていく。
それは、大勢の目が注がれる喧騒の合間に交わされた、あまりに自然で、微笑ましい親子の光景だった。
※※※
午後、傾き始めた陽光が王宮の奥庭を黄金色に染めていた。
人夫たちの威勢のいい掛け声や、石畳を叩く馬の蹄の音が遠くに響いているが、白亜のテラスにはいつものように穏やかな時間が流れている。
テーブルの上には、使い込まれた銀の茶器。湯気を立てるハーブティーの香りが、微かな風に乗って揺れていた。
「……あの、アンナさん。やっぱり、私も何かお手伝いできることはありませんか? 皆さんあんなに忙しそうに準備をされているのに、私だけこうしてお茶を頂いているのは……その、どうしても落ち着かなくて」
楪(ゆずりは)が茶杯を両手で包んだまま、居心地悪そうに視線を落とす。
周囲が自分のために立ち働いているのを黙って見ているのは、彼女の持つ現代的な良識が、どうしても申し訳なさを感じさせてしまうのだ。
「滅相もございません、ユズリハ様。聖女様に荷運びをさせるなど、それこそ私たちの首が飛びかねませんわ。……それに、私たちはこれが仕事です。お気になさらず、今はゆっくりとお身体を休めてください」
アンナが手際よくスコーンを皿に並べながら、厳しくも温かみのある口調で遮った。
その隣に座るフィオナも、楪の不安を和らげるように、そっと彼女の手に自分の手を重ねて微笑む。
「ええ、ユズリハ様。アンナの言う通りですわ。貴女が健やかでいてくださることが、私たちにとって何よりの助けなのですから。……ねえ?」
フィオナが優しく頷いた、その時だった。
傍らで茶を淹れ直していたミーナが、待ってましたと言わんばかりに、身を乗り出して会話に割り込んできた。
「そうですよ、ユズリハ様! それに見てください、このスコーン! 料理長のベルトラムさんが、出発前に少しでも元気を出していただこうと、ユズリハ様のために特別に焼いてくれたんですから! ……そういえばベルトラムさん、こんなことも言っていましたよ。今回の目的地、霊峰の麓には、凄い『秘湯』があるらしいんです!」
ミーナが声を弾ませて語るその『温泉』という言葉。それが耳に飛び込んできた瞬間、楪の表情が劇的に変わった。
「えっ……温泉!? こっちの世界にも、本当にあるんですか!?」

「はい! ベルトラムさんが昔、騎士様たちの食事を作っていた時に聞いたんですって。どんな疲れも一晩で取れて、お肌も陶器のように滑らかにする『神の隠れ湯』があるって。一度くらい、皆さんと寄ってみるチャンス、ありますよね?」
「最高です……! 私の世界でも、温泉はみんなの憧れで、最高の贅沢だったんですよ。大きな湯船にゆっくり浸かって、上がった後に冷たい飲み物を飲んで……。ああ、もう、想像しただけで元気が出てきたかもしれません。……アンナさん、本当に行けますか?」
先ほどまでの申し訳なさはどこへやら、目を輝かせて詰め寄る楪の姿に、フィオナは思わず小さな笑声を上げた。
「ユズリハ様の世界でも愛されていたのですね。……そこまで仰るのなら、私も気になりますわ。お城の浴場とはまた違った、大地の恵み……。ふふ、なんだか、本当の姉妹で遠出をするみたいで、ワクワクしてきましたわ!」
フィオナが期待を込めてアンナを振り返ると、アンナは「やれやれ」といった様子で眼鏡の位置を直した。
「……仕方ありませんね。長旅で心身を健やかに保つのは、任務遂行の上で極めて重要です。衛生管理と士気向上のため、行程に無理のない範囲であれば、検討いたしましょう」
「嬉しい! ありがとうございます、アンナさん!」
テラスに明るい笑い声が響く。
眩しい太陽の下、目の前で笑い合うフィオナやミーナ、そして口うるさくも信頼できるアンナ。
楪はハーブティーの温かな香りの中で、明日から始まる旅の景色に思いを馳せながら、弾むような心で約束を口にした。
「絶対にみんなで入りましょうね、温泉!」
その無邪気な宣言は、テラスを吹き抜ける爽やかな風に乗り、穏やかな午後の中に静かに溶けていった。
旅立ち――黎明の静寂に紛れて
早暁。 空がようやく白み始めた頃、王都の巨大な城門が、音を立てぬよう慎重に開かれた。 朝靄(あさもや)が立ち込める中、用意されたのは紋章すら消された質素な木造の馬車が一台。 『隠密』を旨とする今回の旅に相応しく、それは眠りに就いた街の景色に、影のように溶け込んでいる。
周囲を固める護衛の騎士たちも、抜き足差し足で馬を進めていた。 彼らは地味な外套を深く羽織り、その内側には有事に備えた鎧を隠し持っている。 馬が歩みを進めるたび、厚い布の向こう側から、鎖帷子(くさりかたびら)が微かに擦れる鋭い音が漏れ聞こえていた。

見送りも、賑やかな掛け声もない。ただ冷たい朝の空気だけが、一行の門出を祝福していた。 揺れる車内には、四人の女性が向かい合って座っている。 まだ眠気の残るミーナの微かな寝息と、石畳を叩く車輪の控えめな音。 楪(ゆずりは)は小さく開いた窓から、背後に遠ざかっていく白亜の城を見つめていた。
「……本当に出発しちゃったんだ。アンナさん、これからしばらくは、あのお城には戻れないんですよね?」
「ええ。浄化の任務を終えるまでは。……まだ、夜明けの冷気が厳しいですか、ユズリハ様?」
アンナは膝の上に目録を広げたまま、顔を上げてまっすぐに楪を見つめた。
その穏やかなヘーゼル色の瞳には、いつもの厳格さだけでなく、年若き異邦人を気遣う深い慈しみが宿っている 。
楪は少しだけ迷ってから、隣で静かに瞑想しているフィオナへと視線を移し、小さく首を振った。
「いえ……。不安より、なんだか不思議な感じです。元の世界でも、こんなふうに家族や友達と、早朝から遠出したことがあったから。……でも」
楪は御者台へと続く小さな小窓に目を向けた。
そこには手綱を握り、一人静かに前を見据えるリュカの逞しい背中がある。
彼もまた、銀甲冑の上に厚手のマントを羽織り、その腰には鋭い長剣がいつでも抜ける状態で備えられていた 。
「あんなに強くて寡黙なリュカ様が守ってくれていると思うと、すごく心強いです」
「リュカ様なら大丈夫ですわ。彼は幼い頃から、私を護るために研鑽を積んできた方ですから」
いつの間にか目を開けていたフィオナが誇らしげに微笑み、楪の手を優しく握った。 その温もりに安堵しながら、楪は再び窓の外へと目を向ける。
太陽の光が地平線から差し込み始め、遠ざかる王都の街並みを蒼から橙へと塗り替えていく。 昨日のテラスで交わした、温泉の約束。 料理長のベルトラムさんが、わざわざ早起きして持たせてくれた焼き立てのスコーンの包み。
そんな小さな幸福を道標にするように。 馬車は朝靄を切り裂き、未知なる霊峰への険しい街道へと足を踏み入れていった。
湯煙の誘い、等身大の夜
霊峰の麓に広がる温泉街へ辿り着いた頃には、周囲は深い夜の帳(とばり)に包まれていた。
石畳を叩く蹄の音が止まり、馬車が老舗宿の門前に落ち着くと、冷たい霧の中から硫黄の香りが濃く漂ってくる。
アンナが扉を開けると、フィオナは静かに頷き、差し出された手を借りて外へと降り立った。

「ありがとう、アンナ。……リュカ様、そして皆さんも。ようやく人里へ着きましたわ。今夜はどうか、皆さんもゆっくりと身体を休めてください。この街の湯が、皆さんの疲れを癒やしてくれることを願っていますわ」
フィオナが馬車の傍らに控える騎士たちへ、慈しみを込めて微笑む。
その言葉に、張り詰めていた騎士たちの表情が一気に和らぎ、控えめな喜びの声が漏れた。
だが、その熱を冷ますように、リュカの静かな声が響く。
「慈悲深きお言葉、感謝申し上げます。……ですが今夜は、半数を休息させ、私を含めた残りの半数で周囲を固めます。一刻も武器を離すわけには参りません」
リュカがサファイアブルーの瞳を光らせて頷くと、控えていたアンナが静かに一歩前へ出た。
彼女は穏やかなヘーゼル色の瞳でフィオナを見つめ、落ち着いた声で報告する。
「フィオナ様、ユズリハ様。お部屋の準備は整っております。……ただ、この宿の規則で『お一人一部屋』は受け付けていないとのことで、二名ずつの相部屋となります。フィオナ様とユズリハ様、私とミーナで分かれますので、ご了承くださいませ」
アンナの言葉に、フィオナは「構いませんわ。むしろその方が心強いですもの」と快く応じ、隣の楪(ゆずりは)を促した。
案内された離れの部屋には、使い込まれているが手入れの行き届いた二つの寝台(ベッド)が並んでいた。
柔らかな寝具の感触を確かめると、旅の緊張がようやく解けていくのを感じる。
※※※
柔らかな寝具の感触に旅の緊張が解けたところで、フィオナがいたずらっぽく目を輝かせて、着替えを準備していたアンナとミーナを振り返った。
「ねえ、アンナ、ミーナ。今夜は身分なんて抜きにしましょう。ここはもう城の中ではないのですもの。……四人でお湯に入りましょう? その方が、ずっと楽しいですわ」
「――えっ!? ですが、殿下。それは流石に不作法が過ぎますわ!」
アンナが驚きに声を上げ、慌てて首を振る。けれど、フィオナは「不作法を叱る人はここには誰もいませんわよ」と軽やかに笑い、躊躇うアンナの背中を優しく押した。
楪(ゆずりは)も、その光景に自然と笑みがこぼれる。
「ユズリハ様も、みんな一緒の方が心強いでしょう? さあ、着替えを持って。……ミーナ、貴女もそんなに固まらなくていいのですよ」
「……いいんですか、本当に!? やったぁ! ユズリハ様、フィオナ様、私、お背中流しますね!」
我に返ったミーナが歓喜の声を上げ、アンナも「……もう、殿下には敵いませんね」と、諦めたように、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。

濛々(もうもう)とした湯煙に満ちた、宿の共同浴場。
立ち昇る硫黄の匂いと、絶え間なく注がれるお湯の音。
他のお客様の気配を気にしながらも、楪(ゆずりは)たちが肩を並べてゆっくりとお湯に身を沈めると、ミーナが待ってましたと言わぬばかりに身を乗り出してきた。
「ねえねえ、ユズリハ様! 昨日のリュカ様との散策、どうだったんですか? 二人でどんなところに行ったんですか!」
我慢しきれなかったという様子で、ミーナが声を弾ませる。
楪が「えっ、あ、ええと……」と顔を赤らめて言葉を詰まらせると、その隣でフィオナが楽しげに笑みを深めた。
「あら、私も気になりますわね。王宮の外で、彼はちゃんと貴女をエスコートできていましたか? 詳しく聞かせてもらおうかしら、ユズリハ様」
フィオナの優雅な、けれど逃がさないといった追求に、楪はますます肩までお湯に潜り込んだ。
「……スゴク、優シカッタデス。不器用ナところモあったケド、私ガ困ラナイヨウニ、ずっと気ヲ配ッテクレテ。……あんなリュカ様、私、知リマセンデシタ」

ポツリポツリと、けれど確かな温もりを込めて語る楪の言葉に、ミーナは「いいなぁ! 私も見たかった!」とお湯を叩き、アンナは少し離れた場所で、主たちの安らかな表情を慈しむように見つめていた。
そんな少女たちの柔らかな語らいを、霧の深い場所から響いた、低く落ち着いた女性の声が冷たく遮った。
「――あら、いいお湯ですわね。……あなた方も、旅の方かしら?」
湯煙の影から静かに現れたのは、夜の闇を溶かしたような黒髪を、お湯に浸からぬよう高くまとめ上げた美しい女だった。
露わになった剥き出しのうなじは、成熟した色香を漂わせながらも、どこか一分の隙もない強かさを感じさせる。
女は穏やかに微笑みながら、楪(ゆずりは)の少し離れた場所に、しなやかな動作で身を沈めた。

「ああ、驚かせてしまったかしら。……この宿は少しお湯が熱いけれど、今夜は一段と気持ちが良いですね」
世間話に混じった、極めて自然な声掛け。
アンナが僅かに身構えたが、女の屈託のない微笑みに、フィオナが柔らかく応じた。
「ええ、少し長旅でしたので。……貴女も、お一人で湯治に?」
「ええ、私は王都の方から。少し気ままな巡礼の旅をしておりますの。……あなた方は、どちらからいらしたの?」
女はまとめた髪から零れる一房を指先で弄びながら、穏やかに問いかけた。
「私たちも、王都の方から。少し静養に参りましたの」
フィオナが淀みなく答えると、女は「まあ、あちらから」と、どこか懐かしむように目を細めた。
「それなら、ここは随分と不便に感じるでしょう? 王都の方がずっと見どころも多くて楽しいのに、あなた方のようなお若い方がわざわざこんな田舎へいらっしゃるなんて、なんだか不思議ね」
「ええ、少し騒がしいところから離れたくて。ここは空気がとても澄んでおりますのね」
フィオナが穏やかに、けれどそれ以上の詮索を許さない完成された笑みで返した。
女は「……そう。それなら、静かに過ごせると良いのだけれど」と、含みのある言葉を湯煙の中に残し、まとめた髪を揺らして静かに頷いた。
「あら、いけない。少しお湯に長く浸かりすぎたかしら。なんだか、のぼせてしまったようだわ。……お先に失礼しますね、お嬢さん方。良い夜を」

女は艶やかな笑みを浮かべて立ち上がると、しなやかな動作で湯船を去った。
霧の向こうへ消えていくその後ろ姿を、四人はただ、美しい旅人を見送るような心地で見つめていた。
「……綺麗な人でしたねぇ! ユズリハ様、あの人もどこかの偉いお姉様だったんでしょうか」
ミーナが呑気に呟き、再びお湯を弾ませる。
フィオナとアンナも、その去り際の鮮やかさに毒気を抜かれたように息を吐いた。
けれど楪(ゆずりは)は、温かいはずのお湯の中で、背筋を這い上がる得体の知れない冷たさに、じっと耐えていた。
あの女が立ち上がる直前、一瞬だけ重なった視線。
そこにあったのは、慈愛でも、無関心でもない――ただひたすらに、凍てついた『虚無』だったような気がして。
※※※
浴場へと続く、石造りの静かな廊下。
鎧を脱ぎ、簡素な衣を纏ったリュカは、壁に取り付けられた松明の揺らめきの下で、一人佇んでいた。
重厚な木の扉の向こうからは、水音に混じって、微かな笑い声が漏れ聞こえてくる。
ミーナが何かをはしゃぎ、それにフィオナが穏やかに応じる。
内容までは判然としないが、そのくぐもった残響は、一分の隙もないほどに穏やかで、守るべき『日常』そのものだった。
――そこへ、一人の女が歩み寄ってきた。
しなやかな動作で歩く、黒髪を高くまとめ上げた旅衣の女だ。
リュカは軽く身を引き、道を譲った。女は小さく会釈を返し、そのまま彼の横を通り抜けていく。

すれ違う刹那、微かな湯上がりの熱がリュカの頬を掠めた。
二人の間に言葉はなく、ただ一時の静寂が流れる。
そのまま、彼女の背中が闇に溶けるその瞬間――。
振り返ることなく、女の口元が、冷ややかな弧を描いた。
……それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
廊下には再び静寂が降り、扉の向こうの笑い声も、いつしか穏やかな水音へと変わっていた。
リュカはただ静かに、主たちが満足して戻るその時を待ち続ける。

やがて、重厚な扉が内側から開いた。
「……リュカ様、お待たせいたしましたわ」
湯上がりで頬を桃色に染めたフィオナが、艶やかな深紫黒(しんしこく)の髪をタオルで拭う楪や、ミーナ、アンナと共に姿を現した。
リュカはいつもの穏やかな顔で彼女たちを迎え、短く頷いた。
「いえ。……湯冷めをしないうちに、戻りましょう。明日は、早い」
黎明の咆哮――霊峰の深淵へ
翌朝。
温泉街を包む朝靄(あさもや)が、まだ宿の提灯の熱を帯びているうちに、馬車は静かに門を発った。
背後に遠ざかる温泉の温もり。
それらを置いていき、楪(ゆずりは)は再び、引き締まった空気の中で前を見据えた。

街道を外れ、馬車が進むにつれて路面は険しさを増していく。
周囲を囲むのは、光を拒むように生い茂る原生林と、足元を這う、不気味なほど白い霧。
御者台で手綱を握るリュカは、鋭い視線で前方を凝視している。
山道へ入ってからというもの、彼は一度も口を開いていない。
――鳥のさえずりが、聞こえない。
――風の音すら、重苦しい静寂に塗り潰されている。
「……ここから先が、本当の『聖域』なのですね」
楪の呟きが、冷たい霧にさらわれて消える。
馬車は、戻ることのできない深淵へと、ゆっくりと飲み込まれていった。
第6話:霊峰の麓、湯煙に溶ける休息(完)