早朝の霊峰、その麓に位置する宿の周囲は、手に取れそうなほど濃い霧に包まれていた。
湿った冷気が肌を刺し、これから向かう聖域の過酷さを予感させる。宿の玄関先では、馬を引くリュカと、旅装に身を包んだ楪、フィオナ、そして数名の精鋭騎士たちが、出発の準備を整えていた。
「――ユズリハ様、フィオナ様! 帰ってきたら、最高に美味しいお夕飯を用意して待ってますからね! だから、絶対にお腹を空かせて帰ってきてくださいっ!」
沈黙しがちな一行の背中に投げかけられたのは、ミーナの弾けるような、一点の曇りもない笑顔だった。
霧を切り裂くようなその明るい声に、フィオナがふと足を止め、どこか切なげな、けれど柔らかな微笑みを返す。
「ええ、楽しみにしているわ、ミーナ。……行ってきます」

その隣で、アンナは言葉を発することはなかった。
ただ、御者台に手をかけるリュカの背中を、静かに、そして一点の曇りもないほど深い信頼を込めて見つめている。視線だけで「主と一行を頼む」と、その全てを託すように。
リュカは振り返ることなく、短く一度だけ顎を引いて応えた。
一行が歩き出すと、その姿は瞬く間に白い霧の向こうへと吸い込まれていく。
見送る二人の温かな日常と、霧の先に待つ静謐な聖域。
その境界線は、非情なまでに、鮮明だった。
蹂躙、祭壇を染める『蛇の降臨』
霊峰の頂、雲海を眼下に見下ろす断崖の先に、それは聳え立っていた。
天を衝くほどに巨大な二枚の石門。表面には、王家以外の何者をも拒絶するような神聖な呪詛の紋様がびっしりと刻まれている。近づくだけで肌を焼くような魔力の圧が吹き荒れ、精鋭騎士たちは盾を構え、かつてない重圧に息を呑んだ。
「……これが、伝説に聞く『拒絶の門』か。この俺ですら、肌が粟立つ」
リュカが剣の柄を強く握り締め、険しい表情で門を仰ぎ見る。その隣で、楪が静かに、けれど力強くフィオナの肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ、フィオナ様。あなたの中に流れる気高い血が、きっと道を示してくれます。……私たちは、ついに辿り着いたのですから」

(――行きなさい、フィオナ。王の血を引く者ならば、門の前に立てば自ずとわかるはずよ)
王妃が穏やかな微笑みと共に遺した言葉を胸に、フィオナは震える掌を王家の紋章へとそっと重ねた。瞳を閉じ、自身の魂を門の魔法回路へと委ねる。すると、掌から溢れ出した紅蓮の魔力が血管のように紋様を駆け巡り、数百年眠っていた機構が、熱を帯びて目を覚ました。
――ズゥゥゥゥゥンッ!!
大地を直接揺らすような凄まじい地鳴りが一行の鼓膜を震わせた。ゴゴゴ、ゴゴゴゴゴ……! 石と石が激しく擦れる重厚な轟音が断崖に木霊し、巨大な門が内側へと、あまりにも重々しく、けれど確実に動き始める。
(……なんて、清らかなの。これが……古の文献に記されていた、聖域の『息吹』……ッ!)
楪は、門の隙間から溢れ出した圧倒的な浄化の波動に、思わず胸を押さえた。聖女としての直感が、かつてないほどの清澄な魔力に歓喜し、同時にそのあまりの質量に、喉の奥が震えるほどの畏怖を感じていた。
「う、うわあああっ!? なんだこの振動は! 門に吸い込まれそうだぞ!」
「姿勢を低くしろ! 聖女様と王女殿下をお守りしろッ!」
噴き出すほどの古の魔力の風と、数百年分の塵が嵐となって一行を襲う。精鋭騎士たちは悲鳴に近い声を上げながら、盾を地面に突き立てて必死に耐えていた。リュカは片膝を突き、吹き荒れる風からフィオナを庇うようにその細い腰を抱き寄せ、開かれゆく深淵を鋭く見据える。
やがて門が完全に開ききると、荒れ狂っていた風は嘘のように凪ぎ、そこには現世のものとは思えぬほど清浄な、白銀の草花が咲き乱れる聖域が姿を現した。
「……開いた。本当にお母様の言った通り……」
フィオナの震える呟きに、楪が深く頷き、一歩前へ踏み出した。その瞳には、聖女としての覚悟と、ようやく辿り着いた聖地への、一点の曇りもない希望が宿っていた。
「行きましょう。ここが……私たちの、戦う場所です」

※※※
一行は、白銀に輝く草花が敷き詰められた聖域の小道を、慎重に、けれど確かな足取りで進んでいった。
外界の刺すような冷気は消え、そこには春の陽だまりのような温かさと、肺の奥まで洗われるような清澄な空気が満ちている。道沿いに並ぶ古の石柱には、王家の歴史を物語る緻密な彫刻が施され、フィオナが傍を通るたびにそれらが柔らかな光を放って、正統なる血族を導くかのように祭壇へと繋がっていた。
「……すごい。本当に、お伽話の世界に来たみたいだわ」
フィオナが周囲の美しさに目を細め、感嘆の声を漏らす。その隣で、リュカは常に彼女の半歩後ろを歩み、周囲への警戒を解かぬまま静かに言葉を返した。
「……仰る通りです、フィオナ様。あれほど堅牢な拒絶の門に守られた地、流石の魔物とて容易には踏み込めぬはず。皆、あともう少しだ。警戒を緩めぬまでも、この清らかな空気を糧に、最後まで気を引き締めよ」
「ハッ! 承知いたしました!」
騎士たちの力強い返唱が聖域の静寂に響く。彼らの背中には、ようやくこの地の目的地へ辿り着けるという、一点の曇りもない安堵の輝きが宿り始めていた。

やがて一行の前方に、聖域の心臓部である『水晶の祭壇』が姿を現した。
天から降り注ぐ純白の光を浴びて、巨大な水晶がプリズムのように七色の輝きを周囲に振りまいている。楪がその神々しさに打たれたように歩みを止め、深く、深く息を吐き出した。
(……ああ。この静寂が、どれほど多くの祈りの上に成り立っているのか。今だけは、その重さを私に預けて。この地を蝕む穢れを、私の祈りで……必ず。)
聖女としての重責に震えていた彼女の肩から、ようやく、張り詰めていた糸がほどけるような深い安堵が、静かに溶け出していった。
祭壇の周囲を固める騎士たちも、互いに視線を交わし、微かな微笑みを浮かべていた。
「やれやれ、一時はどうなることかと思いましたが……。隊長、帰ったら約束通り、宿の親父に最高のご馳走を作らせましょう。もちろん、とっておきの酒も付けて!」
「ああ、わかっている。……ここまで支えてくれた皆に、恥をかかせるわけにはいかんからな。全員、生きて帰って、最高の夕飯を……」
隊長が兜の奥で目を細め、部下の肩を叩こうとした、その瞬間だった。
――キィィィィィィィンッ!!
耳を劈くような高周波が、聖域の静寂を無残に切り裂いた。反射的に耳を押さえるフィオナの視界に、突如として『赤き風』が吹き抜ける。
――シュパッ。
あまりにも軽い、糸が切れるような音がした。直後、先ほどまで「最高の夕飯」を語っていた隊長の首が、驚愕の表情を貼り付けたまま宙を舞った。遅れて噴き出した鮮血が、白銀の草花と水晶の祭壇を、非情なまでの赤黒さで塗り潰していく。

「……ぁ、……あ……ッ」
フィオナの喉から、空気の抜けるような掠れた音が漏れた。頬を伝う、生温かく鉄の臭いのする液体。
それが、つい数秒前まで笑っていた男の命であったことを理解した瞬間、彼女の視界は絶望に白く染まった。
震える指先が自分の頬をなぞり、そこにべっとりと張り付いた赤に、彼女はただ、声もなく凍りつくしかなかった。
「隊長ッ!? ひ、敵襲だあああッ!!」
一人の騎士が血飛沫を浴びながら絶叫し、その場にいた全員の思考が極限の緊張へと叩き起こされた。
生き残った精鋭たちは、恐怖を撥ね退けるように一斉に剣を抜き、重厚な金属音が聖域の静寂をかき消していく。
「敵襲ッ!? どこだ、どこか……ユズリハ様、フィオナ様を囲め! 祭壇を背に――」
だが、その騎士の言葉が完遂されることはなかった。
空中に静止していた六本の『白磁の殉教棘(スカラー)』が、意志を持つかのように滑らかに、そして残酷な速度で加速した。シュパッ、と空気を裂く微かな音。直後、抜剣しようとした騎士の右腕が肩口から飛び、叫ぼうとした別の騎士の喉笛が、正確無比に貫かれた。
「や、やめて……やめてえええええッ!!」
楪の悲痛な叫びが、蹂躙される聖域に木霊した。目の前で自分を慕っていた騎士たちが、まるで道端の雑草を刈り取るかのように、抗う術もなく屠られていく。
聖女としての祈りは恐怖に塗り潰され、彼女はその凄惨な光景に、喉を掻き毟りながら崩れ落ちるしかなかった。
白磁の殉教棘(スカラー)の蹂躙
死体の山を音もなく踏み越え、一人の女が悠然と姿を現した。
彼女が纏うのは、純白の絹地で仕立てられた『背徳の聖衣』。一見すれば法衣のような神聖さを漂わせているが、その実は、動くたびに肢体の曲線をこれでもかと強調し、胸元から腰元にかけて不自然に穿たれたスリットが、隠すべき肌を無遠慮に晒している。神への祈りよりも肉の誘惑を優先させたかのような、あまりにも不浄な礼装だった。

「死に損ないめ。生命の律動(リィマ)を、これ以上響かせるなと言っている」
女は、まだ息のあった騎士の胸を、浮遊する短剣で無造作に縫い留めた。断末魔さえも結晶の刃に吸い込まれ、聖域には再び、死という名の静寂が戻り始める。
「――お待ちしておりましたのよ。……外でずっと、皆様がこの扉を開けてくださるのを」
死体の上に降り立った女は、透けるベールの下で、慈しむように目を細めた。黒曜石のごとき深い艶を湛えた編み込み髪が、返り血を浴びた背中で揺れる。彼女は、戦慄に凍りつくフィオナと楪を交互に見つめると、歌うような声音で言葉を継いだ。
「……ふふ。昨日のあのお宿の『清らかな湯』は、皆様のお疲れを癒やしてはくれませんでしたの? せっかくあの湯殿で、皆様の無防備な背中を眺めながら、その『律動』が止まる瞬間を、静かにお祈りしておりましたのに……。随分と、酷いお顔をされていますわね」
その言葉を聞いた瞬間、三人の脳裏に昨日の記憶が鮮烈に蘇った。
湯気に煙る中、穏やかな巡礼者として振る舞っていたあの女。フィオナは、昨日言葉を交わした相手が、今こうして仲間の血を浴びて微笑む魔物へと変貌した事実に、指先を激しく震わせた。
「アナタ……昨日の、あの時の……ッ!」
そしてユズリハは、昨日あの湯殿で肌を刺すように感じた「凍てついた虚無」の正体を今、最悪の形で突きつけられていた。
あの時の一瞬の視線に宿っていた死の色が、今、六本の白き刃となって彼女たちを包囲している。
「貴様……昨日の女かッ!? なぜ、お前がここに……ッ!」
リュカが、抜剣しながら戦慄の声を上げた。女は、水晶の祭壇へと歩み寄り、剣先の血を無造作に振り払った。鮮血が火花のように散り、清浄な輝きを醜く汚していく。
「ええ。不浄な律動を撒き散らす偽りの聖女様を、この神聖な場所で……究極の『安らぎ(ルム)』へと導く刻(とき)を、ずっと待ちわびておりましたの」

「究極の安らぎ(ルム)……。すべてを灰色の終焉へと塗り潰す、その『死の白』……。まさか貴様、忌まわしき凶兆――『白き終焉を導く者(エイス・アル・カ・ルム)』かッ……!」
リュカは傍らのフィオナを祭壇から離れた石柱の陰へと逃がすと、「王女様、そこから動かないでください!」と短く叫んだ。
そのまま間髪入れず、祭壇の上で崩れ落ちる楪の前へと躍り出ると、肉薄する女を阻むように剣を正眼に構えた。
ユズリハの纏う清浄な白を嘲笑うかのような、あまりにも無機質な殺意の色彩。女はその問いに答える代わりに、真紅の瞳に刻まれた白銀の十字を悦びに震わせ、深く、優雅に一礼してみせた。
「来い、忌まわしき凶兆……ッ!」
リュカの咆哮とともに、白銀の十字を宿した死神が動いた。ニルヴァが指先をわずかに弾くと、滞空していた六本の『白磁の殉教棘(スカラー)』が、物理法則を無視した幾何学的な軌道を描いて殺到する。
「――耳障りですわ。その、命のリィマ」
宙を舞う六本の『白磁の殉教棘(スカラー)』を力で叩き伏せ、リュカは最短距離で死神の懐へと踏み込んだ。渾身の力で振り下ろされた紅蓮の刃。それをニルヴァは避けることなく、袖口から滑り落ちた漆黒の短剣で直接受け止めた。
鋼と鋼が悲鳴を上げる至近距離。その衝撃が短剣の柄を通して手のひらに伝わった瞬間、ニルヴァの真紅の瞳が、一点の曇りもない精度での『愉悦』に細められた。

(……あら。この、芯に秘められたしなやかな『律動(リィマ)』……)
無骨な鉄塊を打ち鳴らしたはずの手応え。だが、その奥底から返ってきたのは、昨日の宿の廊下で、月明かりを背にしたあの影とすれ違った際に感じた、あの不可解な揺らぎそのものだった。
重厚な殻に包まれたその内側の『真実』を指先から吸い上げ、女はベールの下で、誰にも気づかれぬほど微かに、そして深く、満足げに微笑んだ。
「……お願い、皆を助けて! なんで、なんで何も起きないの……ッ!?」
石柱の陰で、フィオナは震える指先を『白銀の指輪』へと重ね、溢れ出す涙を拭う間もなく、魂を削るような祈りを捧げた。
しかし、指輪は白銀の輝きを放つどころか、凍りついたような沈黙を貫く。
代わりに、祈りを吸い込んだ指輪から、逃げ場のない『内側から焼かれるような熱』が彼女の全身へと逆流した。

「ああぁ……っ! ごめんなさい、リュカ……ユズリハ様! 私が、私がもっとしっかりしていれば……っ!」
祈れば祈るほど、救いを拒む指輪が彼女を焼き苛む。その呪わしい『蓄積する熱』と、己の無力さへの嗚咽は、リュカの流す血の色が濃くなるほどに、逃げ場のない重圧となって彼女の内側を埋め尽くしていった。
「リュカ様……もう、もう十分です! 私のために、これ以上は……っ!」
背後で楪が、喉を締め付けられるような悲鳴を上げた。自分を庇い、次々と刻まれていく騎士の背中。その惨状に、彼女の瞳からは光が消え、絶望の影が色濃く差していく。
「これ以上……好きにはさせんッ!」
リュカが全霊の魔力を剣に込め、二人の少女の絶望を振り払うように一歩踏み込む。それは騎士としての矜持を賭した、文字通りの『死力を尽くした、限界を超えた一撃』だった。
黄金の剣筋が、六本の殉教棘(スカラー)を強引に叩き落とし、ついにはニルヴァの絶対領域へと肉薄する。
一方は無機質な死の旋律、一方は命を懸けた守護の咆哮。両者の力は今、血に染まる聖域の中で『ギリギリの互角』にまで達していた。
「――不純ですわ。最高級の『静寂(ルム)』に、そのような濁った熱を混ぜるなど」
ニルヴァが、汚物を見るかのように微かに眉をひそめた。自身の『祈り』を力でねじ伏せようとするリュカの剣気――だが、彼女の真紅の瞳が捉えたのは、それ以上に悍ましく、歪な『変質』だった。石柱の陰で泣き崩れるフィオナ。その指に嵌められた『白銀の指輪』から噴き出す、どろりと濁った『内側から焼かれるような熱』が、聖域を満たすべき清浄な死の気配を、醜く蝕み始めていたのだ。
「……興が覚めましたわ。これほど騒がしい律動(リィマ)は、私の安らぎ(ルム)には……美しくありませんもの」
愉悦に歪んでいた彼女の表情から、一瞬にして一切の感情がパージされる。ニルヴァが指先をわずかに振ると、空中を舞っていた白磁の殉教棘(スカラー)は、実体を失ったかのように音もなく白き霧へと霧散していった。追撃を仕掛けようとするリュカだったが、深手を負った体はそれ以上の前進を許さない。
「本日はここまでにして差し上げますわ。……皆様、どうぞ『安らかな死』を夢見て、ゆっくりお休みになって」
ベールの下で、どこか懐かしむような冷淡な笑みを浮かべ、女は自らが生み出した霧の向こう側へと、溶け込むように姿を消した。
死神の気配が霧散した聖域に、残されたのは重苦しい静寂と、フィオナの忍び泣く声だけだった。リュカは血濡れの剣を杖代わりに、荒い息を吐きながら膝を突く。
「……終わった、のですか……?」
ユズリハが掠れた声で問いかけるが、リュカには答える余裕すらなかった。石柱の陰では、今なお指輪の残熱に震えるフィオナが、顔を覆ったまま動けずにいた。
不純なる熱、白き沈黙(ルム)の余韻
死神の霧が完全に晴れた聖域で、ユズリハは震える指先をリュカの傷口へと翳した。淡い琥珀色の光が溢れ、裂かれた肉と鎧の隙間を埋めていく。
それは聖女としての祈りが結実した、清廉で慈悲深き奇跡。リュカは途切れかけた意識を繋ぎ止め、荒い呼吸を整えながら、血濡れの剣を鞘に収めた。
「……行けますか、リュカ様」
ユズリハの問いに、リュカは無言で頷いた。傍らではフィオナが、未だに脈打つ『白銀の指輪』の熱に身を震わせ、石柱に背を預けている。
リュカはその熱を冷ます術を持たず、ただ痛ましげにその手元を視界の端に捉えることしかできなかった。
三人は、浄化の儀式という最低限の責務を辛うじて果たし、呪わしい熱気に満ちた聖域を後にした。
命を削るような帰路を経て、宿に辿り着いたその夜のことだ。
深い傷を負い、意識を微睡(まどろ)みの中に沈めたリュカを部屋に残し、ユズリハとフィオナは体についた血と煤を洗い流すため、宿の奥に設えられた温泉へと身を沈めた。

静かに湯の注がれる石造りの湯船。立ち昇る湯煙の向こう側、フィオナの細い指に嵌まった『白銀の指輪』は、物理的には冷たく、死んだように沈黙している。
だが、その指輪に触れる皮膚の奥では、逃げ場のない『逆流する灼熱』が、彼女の神経だけを執拗に焼き苛んでいた。
他者の目に映る指輪は冷徹な白銀のままでありながら、フィオナの内側では、今なお聖域の劫火が吹き荒れているのだ。
「……フィオナ様、まだ、そんなに熱いのですか?」
楪が、潜めた声で問いかける。フィオナは自身の左手を抱え込むようにして、湯の中に顔を半分まで沈めた。
「大丈夫……と言いたいけれど、これだけは、自分でもどうにもならないの」
フィオナの声が、苦痛と自責で細く震える。祈りの代償として蓄積された熱は、彼女の皮膚を内側から焼き苛み、意識を朦朧とさせていた。
楪は何も言わず、揺れる水面を掻き分けて彼女に近づくと、その震える体を自らの胸へと優しく抱き寄せた。
「――あ……」
フィオナの唇から、驚きと、逃げ場のない熱に耐えるような熱い吐息が零れる。その耳元で、楪の声が静かに、しかし彼女の心臓(こころ)の芯へと、真っ直ぐに沁み渡った
「冷たいお水では、この熱は消せません。……ですから、せめて私に、半分だけ預けてください」
(……ユズリハ様。あなたの、鼓動が……)
湯気の中で重なる、二人の少女の肌。フィオナの皮膚の奥から伝わる異常な『逆流する灼熱』を、楪は自らの体で受け止め、共に耐え忍ぶ。
その光景は、戦場の残酷さとは無縁の、しかし同じほどに切実な『絆』の現出だった。

フィオナは、友の胸から伝わる、自分よりもずっと速く、しかし力強い『命の律動(リィマ)』に、自らの鼓動までもが一点の曇りもない精度で引きずられていくのを感じていた。その高鳴りが、呪いの熱に支配されていた彼女の意識を、微かに、だが最高級の温かさで現世へと繋ぎ止める。彼女は友の腕の中で、ようやく小さな溜息をつき、逃げ場のない熱に耐えるように瞳を閉じた。
※※※
さらに数日が過ぎ、三人は再び馬車の中にいた。窓の外を流れる荒涼とした景色を見つめるリュカの横顔は、以前にも増して厳格な光を帯びている。彼の視線の先にあるのは、ただ一人の死神ではなく、その背後に蠢く、一分の隙もないほど冷徹な狂信集団の影だった。
(エイス・アル・カ・ルム……『白き乾涸(アル・カ)』を絶対的な浄化と見なす、救いようのない狂信者どもめ)
リュカは脳裏で、教団の暗部に記録されていたその名を苦々しく反芻した。生命の律動(リィマ)を腐敗の雑音と断じ、無機質の結晶世界こそが至高の安らぎ(ルム)であると盲信する者たち。聖女である楪を「生命という汚れを撒き散らす不浄」と定義し、その抹殺を『汚れなき世界への奉仕』と正当化する、非の打ち所がないほど執拗な暗殺集団。
ニルヴァが放った白磁の殉教棘(スカラー)――。あれこそが、自らの肉体をも結晶化させる彼らの、非の打ち所がないほど執拗な信仰の象徴だったのだろう。痛みを知らず、死を恐れぬ狂信の刃。奴らにとって、フィオナの指輪から溢れる『熱』は、清浄なアル・カの世界を汚す耐え難い不純物に他ならない。
「……奴らは、また現れる。今度は、さらに多くの『沈黙』を連れてな」
リュカの声は低く、逃げ場のない現実を射抜くような冷徹な響きを帯びていた。
エイス・アル・カ・ルムの追跡、そして聖域で見たあの白き狂気。山積する不吉な予感を抱えながら、馬車はガタガタと音を立てて街道を進む。
三人の間に流れる沈黙は、もはや平穏なものではなく、次の嵐……『白き終焉』を待つ重苦しい予兆へと変質していた。
第7話:聖域の赤き風、帰還の温もり(完)